公開日:2022年9月13日

「見るは触れる 日本の新進作家 vol.19」展フォトレポート。気鋭の5作家を通じて、写真の触覚性に迫る

今年は水木塁、澤田華、多和田有希、永田康祐、岩井優の作品が公開

会場風景より、多和田優希《I am In You》(2016-22)

東京都写真美術館にて、「見るは触れる 日本の新進作家 vol.19」展が開催されている。会期は12月11日まで。企画・構成は同館学芸員の遠藤みゆき。参加作家は、水木塁、澤田華、多和田有希、永田康祐、岩井優。

本展プレス説明会より。左から水木塁、多和田有希、永田康祐、岩井優

「日本の新進作家」展は2002年から続く同館の企画。遠藤が語るように、気鋭の写真作家を紹介するとともに、写真を通じて社会の潮流をとらえるための展覧会でもある。「見るは触れる(Seeing as though touching)」という今年のテーマやいま開催する意義について、コロナ禍の経験に留意しつつ、遠藤は以下のように述べる。

外界との接触が阻まれた時期に、写真・映像を通じて、どこかの風景や誰かの肖像を見ることは、わたしたちを少なからず励ましてくれた。現実を生きるために、写真や映像が必要不可欠ともいえる現在。あらためて、わたしたちの周りに当たり前に存在している、写真や映像が媒介するイメージと、写真・映像メディアそのものについて考える必要があるのではないだろうか(*1)

カメラが第一に「記録」するための装置であることや、プリントされた写真の「支持体」としての役割に注目する作品が並ぶ本展。見るという写真の特性を超えて、私たちの感覚を拡張させ、揺さぶる5人の作家について紹介しよう。

会場風景より、「雑草のポートレートおよび都市の地質学」シリーズのひとつ(2022)

水木塁は街中の風景を写真を通して再解釈する。「雑草のポートレートおよび都市の地質学」シリーズはコロナ禍による都市の変化を捉えた作品だ。人々の活動が減ったことにより、雑草が大きく成長したり、いままで生えてなかった場所にまで侵食することに着想。サイアノタイプ(青写真)とデジタルプロセスを組み合わせた巨大な平面作品として実現した。

会場風景より水木塁の作品。手前は《O/B/J - 組み替えられた建築もしくは憩いの場として(overtone dub mix)》(2022)、奥の3作は「雑草のポートレートおよび都市の地質学」シリーズ(2022)

他方で、《O/B/J - 組み替えられた建築もしくは憩いの場として(overtone dub mix)》はスケートボーダーでもある水木の身体感覚をもとに制作されたもの。公共空間を写した写真という「客体」をもとにしながらも、その写真は湾曲され、ストリートの段差のようにふたつに分割されることで、水木がボード越しに感得した地面や障害物が「主体」感が演出されている。

会場風景より、澤田華《漂うビデオ(水槽、リュミエール兄弟、映像の角)(2022)
会場風景より、澤田華《67のポストビューおよび目下のシーン》(2022)

澤田華は写真や映像の細部に注目し、私たちがイメージの脆さを明らかにする。映像作品《漂うビデオ(水槽、リュミエール兄弟、映像の角)》を見続けていると、イメージを投影するはずの物理的な支持体であるはずのスクリーンが映像のなかでひらめき、その背後には光源であるプロジェクターも垣間見えることに気づかされる。支持体として透明化されるはずのスクリーンに、私たちは否応なく意識が向いてしまうだろう。《67のポストビューおよび目下のシーン》も同様に、スクリーンに写し出されたデジタルカメラ上の写真ではなく、普段は注視することのない液晶画面やボタンを映り込ませた作品だ。

会場風景より、多和田優希《I am in You》(2016-22)

あるコンセプトにしたがって、写真を燃やすという制作方法をとる多和田優希。本展のメインヴィジュアルにも起用されている《I am in You》は、プリントされた海の写真を、「水の部分だけ燃やし泡は残す」というルールのもと制作された作品。生で見ると思わずふれたくなるようなそのテクスチャは、本展においてもっとも明らかな「写真の触覚性」を提示するだろう。

会場風景より、多和田優希《lachrymatory》(2021)

写真を燃やすという手法も相まって、作品のヴィジュアルに注目しがちだが、作家が「ひとつの写真と長く過ごすために写真を丁寧に燃やす」(*2)と語ることも興味深い。実際、《I am in You》は1つの写真データを2枚ずつプリントし、多和田と彼女の母がそれぞれ燃やしたもので、制作にはおよそ6年の歳月をかけたという。ほかにも多和田は、自身の家族や動植物の写真を燃やしてコラージュしたシリーズ「Family Ritual」やワークショップとして参加者と協働する《lachrymatory》など、制作時の時間感覚を人々と共有するような手法も試みている。

会場風景より、永田康祐《Theseus》(2022)

永田康祐はカメラのヴィジョンにおける差異やイリュージョンに関する作品を交えつつ、メディアの権力関係を転覆させる展示を企画した。私たちは展覧会に訪れる際、展示作品の詳細を知るために、オーディオガイドを使うことがあるが、私たちが注目すべきは作品自体であって、オーディオガイドはそれを補助するものでしかない。しかし永田の展示では、オーディオガイドを聞くことではじめて、展示の物語を知り、読み解くことが可能になる。

永田自身の作品《Theseus》はAdobe Photoshopの画面を塗りつぶす機能「スポット修復ブラシツール」を用いて、もとの画像が持つイメージを操作したもの。ほかにも、ふたつのゲームのアルゴリズムの同一性に着目した《三目並べと数字ゲーム》や、AIによる画像認識に注目した《Semantic Segmentation》など、写真の錯覚を扱った作品や装置、文献などが並ぶ。

会場風景より、永田康祐の展示

「クレンジング(洗浄・浄化)」をテーマとする岩井優の映像作品は、「コントロール」にまつわる個人的なドキュメントを作品に昇華した。本展に出品された「Control Diaries」は、岩井が放射性物質の除染作業を行っている際に撮影された映像がもととなっており、木製のドーム内の小窓に断片的な空の映像を写したインスタレーション、汚染作業の手順を示した映像作品、当時の記録写真をまとめた冊子で構成させる。

本作はもともと、「〔除染〕作業を真面目にすればするほど、自分の存在意義のようなものが(あるとすればだけど)希薄になっていくような感じ」(*3)がした作業時の岩井が「それが何になるか、どうなるかなんて考えず、習慣のように記録していた」写真や映像が素材だ。除染時に眺めていた空や、厳格なマスクの着用要請が出されたことが印象的だという岩井は、参加者とともにマスクを着用して美術館を清掃、それを記録する展示も過去に行っている。危険性や切迫感に程度の差はあれど、昨今の社会状況と地続きに捉えられるはずだ。

会場風景より、岩井優《経験的空模様#3》(2022)(「Control Diaries」シリーズより)

「触れる」ことがかつてよりも制限されている現在。「触れる」ことなく「見る」ことを楽しむ場所としての美術館。接触ができずとも、作品やメディアを媒介して触れることを想像することの重要さを提示する本展に、ぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。


*1──「見るは触れる 日本の新進作家 vol.19」展図録、p. 9
*2──本展プレス説明会での作家コメントより
*3──「見るは触れる 日本の新進作家 vol.19」展図録、pp. 106-7

浅見悠吾

浅見悠吾

1999年、千葉県生まれ。2021〜23年、Tokyo Art Beat エディトリアルインターン。東京工業大学大学院社会・人間科学コース在籍(伊藤亜紗研究室)。フランス・パリ在住。