【対談】泉太郎×武田宙也「わからなさについてのプロセス」という永久機関。「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」展の謎を語り合う

東京オペラシティ アートギャラリーで3月26日まで開催中の泉太郎の個展「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」を機に、アーティストの泉太郎と哲学と美学を専門とする研究者・武田宙也が対談。(構成:新原なりか)

左から、泉太郎、武田宙也。「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」展にて Photo:Osamu Sakamoto

東京オペラシティ アートギャラリーで、泉太郎の個展「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」が開催されている。会期は1月18日~3月26日。

展覧会のイントロダクションには、次のような文言がある。「古墳や陵墓、ストライキ、再野生化、仮病、鷹狩におけるマニング(懐[なつ]かせる)やフーディング(目隠し)他、数々のキーワードが絡み合う思考のプロセスと、コスプレ、キャンプ、被葬のような体験を織り交ぜ、不可知に向き合い続けるための永久機関を立ち上げます。」

様々なキーワードが絡み合う謎に満ちたこの展覧会を見て、泉と対談するのは、『フーコーの美学――生と芸術のあいだで』などの著書や、マキシム・クロンブ『ゾンビの小哲学――ホラーを通していかに思考するか』、ニコラ・ブリオー『ラディカント グローバリゼーションの美学に向けて』などの訳書がある、哲学と美学を専門とする研究者・武田宙也(京都大学 大学院人間・環境学研究科 准教授)。

対話する中で見えてきたもの、腑に落ちたこともあれば、新たな謎も次々と生まれてくる…… そんな対談の様子をぜひお楽しみください。

会場風景 Photo: OMOTE Nobutada

*展覧会の詳細をお伝えするレポートはこちら

「再野生化」と「ルール」

──武田さんには先ほど展覧会をご覧いただきました。いかがでしたか?

武田:すごく巨大な謎、というのが第一に受けた印象ですね。展覧会タイトルにあるスフィンクスも人に謎をかける存在なので、そのタイトルと全体から受ける印象がとてもマッチしているなと思いました。

たくさんのテーマやキーワードが絡み合う中で、とくに「再野生化」という言葉を非常に興味深く感じて、それが何を意味するのかなとずっと考えながら見ていました。

展示の最初に、鑑賞者は自分のスマホでQRコードを読み取って、女性の声と男性の声が話しているのを聞くように促されますね。そこで、いろいろな「ルール」を聞くことになるわけですが、女性の声がしきりに言っているのが「あなたを再野生化したい」「そのためにはルールに従う必要がある」ということです。野生というのはルールや規範とは相反するもののように思われるので、まずそこに矛盾を感じて、どう解釈したらいいのか戸惑いました。

会場風景 撮影:編集部

いったい誰が何を「再野生化」するのか。声の主の正体や、その対象も明らかではありませんが、私の解釈として「美術館」の再野生化だとまず考えてみると、「墳墓」という本展の別のキーワードにもつながってくるのではないかと思いました。

再野生化された美術館とはどういうものか考えたとき、そのひとつのモデルとして墳墓があるのかなと。墳墓に権力者の遺体とともに収められた副葬品はいまでいう芸術作品のようなもので、それは美術館の起源と言ったら言いすぎかもしれませんが、野生の美術館というか、そういうとらえ方もできるのではないかと。

武田宙也 Photo:Osamu Sakamoto

──会場に足を踏み入れて、本当に何が始まるのかわからない状態で、鑑賞者に与えられる最初のキーワードのひとつが再野生化ですよね。本展を貫く重要なテーマなのだろうなと私も思いました。泉さん、いまのお話を聞いていかがですか?

泉:そうですね……僕は、普段から言葉を使うことについては思うところがあり……少しスローペースでお願いすることになるかもしれませんが、ちょっと待ってくださいね……。

まずはいまのお話、投げかけへの返球を試みてみると、おっしゃるように、美術館を再野生化するという、とても矛盾した言い方が、展覧会の導入で登場しますね。再野生化とは、人の進出により野生が減退したところを再び野生状態に戻すようなことですが、「再」と付いているのを見てわかるように、もともと野生がそこにあったことが前提の言葉です。しかし、美術館はもともと野生であったどころか人工物の殿堂みたいな場所ですからね。

会場風景 Photo: OMOTE Nobutada

いっぽうで、美術館にとっての自然環境と呼べそうな状況もあり、それは私達がイメージするような木々が生い茂り、反人工物としての世界ではないのかもしれない。それは、美術館が誰の、何のための場所なのか、という問いにも関わることです。今回の空間ではまず最初に、作品が人間の世界のルールに沿うのではなく、作品側のルールに人間が沿うことが要求されます。人に飼い慣らされていた作品が人を飼い慣らそうとしているようで、怒り出す人もいるかもしれませんが、だとしたら作品のほうも普段は怒りを抱えて展示されているのかもしれない。

入り口で聞くことになる音声では、「あなた」や「私」という言葉は出てくるものの、それらが誰で何を指しているのか、明確に示していません。「私」という話の主体が美術館なのか、あるいは別のものなのか、「あなた」が美術館なのか。鑑賞者はマントのようなものを身につけることができますが、それは美術館に擬態する、美術館のコスプレをすることでもある。美術館の壁に必要とされている機能のひとつは、壁自身の存在を消すことです。

泉太郎 Photo:Osamu Sakamoto

武田:そうですね。あのコスプレによって私は、観客が消滅する経験のようなものを感じました。美術館に通常なら付き物の観客が消え去って透明になった状態。これも先ほどの墳墓の話とつながってくるのですが、墳墓の中には副葬品が収められていて、でもその状態って誰か観客がいるわけではないですよね。そこにはもう死者と副葬品=作品しかないわけで、もし見る人がいるとしたらその死者であったりあるいはなにか霊的な存在みたいなものだけ。観客がコスプレをして自己消滅した状態でそこに置かれている作品に向き合っているというのは、その墳墓の中における副葬品の状況とパラレルに感じました。

泉:僕が生まれ育った奈良県の中部には、奈良時代、飛鳥時代に作られた古墳や石造物が多くあり、石室の中にまで入り見物できるものもあります。もともとは地面に埋まっていて人の目に触れようもなかった石室が、いつの頃からか周りの土が除かれて露出し、墓石のようなモニュメントと化しています。それを見るために観光客が来て中にまで入ることができる。いっぽうで、皇室関係の墓所である陵墓は、周辺の森も含めて立ち入りが禁じられているため、周辺はまさに再自然化している状態です。

墳墓が美術館の起源にあたるかどうかはさておき、たしかに空間を区切ることで成り立っているところは共通していますね。古墳、墳墓は生者と死者の空間を区切るだけではなく、頑丈な巨石で壁を立てて、できるだけ長い期間、遺体が人間としてのかたちを失って土に混ざってしまわぬように、つまり自然化することに抵抗してもいる。美術館が収蔵品や展示物に対して行っていることもそれに近いです。墳墓にしても美術館にしても、野生化してしまう、自然と混ざり合ってしまうことへの抵抗が求められています。

武田:再野生化とは何かについて今回事前に少し調べて、それについて書かれた本も読んだのですが、2000年代にヨーロッパやアメリカで、人が到達する以前の自然の状態を人工的に再現する実験的な地区がつくられたそうですね。

狭義では、そこで行われている実践のことが再野生化と呼ばれている。でもそれってものすごく人工的で、本来、野生なんてそのままにしていたらどんどん滅びていくのがまさに自然の流れです。そもそも何が野生なのかということも、その再野生化の議論の中でかなり紛糾していて、人が到達する以前の自然な状態ってどこなんだ、コロンブス到達以前なのか、あるいはもっと昔の更新世の自然なのか。どの状態を野生と指すかっていうのがすごく議論含みで、野生という言葉が漠としているんですけれども、でもその漠とした野生をなんとか再現したくて最先端のテクノロジーをもって挑むということをやっているんですね。いまおっしゃっていた美術館の役割というのもそれと通じるところがあるのかなと思いました。

泉:おっしゃるように、人が区切った一定の地域をある設定の上で、人工的に自然の状態に戻そうとする再野生化もありますし、あとは、強制的に自然に戻らざるをえない場所、人がいなくなったり住めなくなったような場所を、そのまま放置して見守りつつ、ある程度成り行きに任せるようなことも含まれます。

先ほど武田さんが、野生とはルールや規範とは相反するもののように思われるとおっしゃっていましたが、野生を作り出すためには、逆に人間が自然に触れすぎない、干渉しすぎないというルールを人間側に課さないといけない、それは人為的な不干渉と言えるような状態ですね。人にとってはルールを課されることだけれども、逆の立場から考えると、ルールから外れていく方向で達成される自然化でもある。ただ、僕は地球環境についてのメッセージを発することを目的にしているわけではなくて、この状況が孕んでいる困難さ、ややこしさをそのままに、さらにそれを言葉にして発したときに生じる矛盾に執心している。

会場風景 Photo: OMOTE Nobutada

区切られた空間としての陵墓

──今回、泉さんが墳墓やお墓というモチーフに至った経緯をお伺いできますか? どういうところから興味を持たれたのか。

泉:この対談の最初に、言葉を使うことの難しさについて、少し話しかけたのですけれど、まずそこをもう少し。これは僕の考え方、取り組みとも関わってくることなのかもしれない。僕が言葉による表現、やり取りにおいては特に慎重にもほどがある、結果としてどうしてもギクシャクしてしまうのは、言葉があくまで代替品である、ある事象についてスピード感を持って素早くコミュニケーションに持ち込むために変換された、代わりのものであるという前提に、強烈に自覚的であるからです。

だから言葉というものは速すぎるし、強すぎると感じるのです。じつのところ、そこに美術館の広報の方がいらっしゃるので言いにくいのですが、プレス用のテキストも、速すぎるし強すぎるので読まないようにしています。しかしいっぽうでは、言葉を使うことの歯痒さを愛してもいるのです。

たとえば、ある事柄を一度言葉にして、その言葉を今度は彫刻や音や色に変換し、またそれを言葉にしてみる。この変換をしつこく繰り返していくと、もともと何から発想したものだったのか、やがて記憶が遠のいて、言語化するのが難しくなっていきます。このプロセスが、「わからなさについてのプロセス」、だと僕は考えています。人は何かを変換する時に、自分が知っているものにとりあえず置き換えます。言葉もそうです。知らない言葉には何も置き換えることができません。しかし言葉によって枠を与えた段階で終わっていては、理解という設定が仮のゴールであることを忘れてしまう。

以前、セイタカアワダチソウという植物の感覚に、人間の感覚を近づけようとする、交換しようとするような作品を作りました。科学技術により、ゴールできる場を作り出そうとしたものではありません。人間だとしたらこうだろう、セイタカアワダチソウだとしたらこうだろう、人間としてのセイタカアワダチソウだとしたらこうだろう、セイタカアワダチソウとしての人間だったらこうだろう、というようなことを延々と繰り返し、情報や解釈を織り交ぜて、交換し続けること、向き合い続けるための装置です。これは永久機関と言えます。わからないことはすべて、この永久機関を動かすための動力になります。これにはあらゆる事象が該当します。

会場風景より、手前に赤いロープによる結界がある 撮影:編集部

今回のキーワードとして、度々言葉や文字にして出しているのが「陵墓」です。僕が奈良県のある地域で生まれ育ってきたなかで、極々身近にあったもの。陵墓というのは皇室関係の墳墓です。古くは陵の部分だけでミササギと読んでいました。

ある陵墓は、禁足地ではあるのですが、内外の区切り方はけっこうざっくりとしていて、ロープが張ってあり「宮内庁管轄、立ち入り禁止」と書いてあるだけです。つまり物理的な結界はロープのみなので跨げば入れる。その境目は森の中にあるので、当然ながら草木は内も外もお構い無しで生い茂っています。こちら側には林道があるので、ある程度整備されてはいますが、向こう側は人の立ち入りを禁じているせいでジャングルとなり、自然そのものが壁となり、ロープと権威による歯止めがなくとも容易には入れません。僕としては、そのあたりにもともと住んでいた多くの人達の生活と移住、神域が造成された経緯の捩れについても触れねばなりませんが、まずはその場所を皮切りに考えを進めました。

──今回の展示でも、広い展示室の奥に鑑賞者が被葬されるドーム状の空間があって、その周囲はロープで結界が張られていましたね。それも美術館の空間として明確に区切られているわけではくて、うっかり跨いでしまいそうな曖昧な境界だったんですが、そのイメージがいまよくわかりました。

会場風景 撮影:編集部

泉:あそこも跨ごうと思えば跨げますね。結界用ポールの頂部にある監視カメラは目を閉じて眠っていますし、それに伴いポールは捻じ曲がり、地面にロープが垂らされているだけ。ただ、入ろうとすると監視員の方から、「聖域なので入れません」と止められます。なぜなのか? 納得できませんね。そうするよう、自分でお願いしておきながら。

武田:折に触れて、各所の壁などにルールが書かれていますよね。そのルールの示し方もおもしろくて、ところどころマスキングされていてルールなのに読めないとか、書き直しがたくさんあったりとか。そこもすごく気になったんですが、でも考えてみるとたしかにルールって曖昧なものだし、日本の法律でもそうですけど、解釈や政治の状況によってがらっと変わったりする。あと、あのマスキングからは公文書の黒塗りを想起したりもしました。

会場風景 Photo: OMOTE Nobutada

泉:ルールが書かれている壁の黒い部分は、実在の公文書の黒塗りのかたちを引用して作りました。黒塗りの文書が裏返っているような状況で、白いチョークで文字を書いているので、黒塗りのところは読めるが、白く抜けている箇所や美術館の白い壁にまで文字が及んでいるような箇所は読みにくい。展示の中には、繰り返し使われているかたちがあったり、裏返り反転している箇所も多いのです。

武田:さっきおっしゃっていた陵墓の中に入れないというお話ですけれども、展覧会の後半で、鑑賞者がテントを立てる場所でもそれがまさに再現されているのかなと。じつは私は立てている途中で、展示室に配備された「管理人」によって撤去されてしまいました。そのとき、すごい強権発動を感じたんですよね。強制的に自分の構築物を撤去されるってこういう気持ちなのかというのを知ることができました。

あのテントがいっぱい立っている様は、ホームレスの人たちの野宿の光景も想起させます。関西でも、かつては大阪などの公園でたくさん見かけたホームレスのテントは、都市のジェントリフィケーションに伴いここ20年ほどで激減しました。権力が、ある種恣意的に定めたルールによって入っていい人といけない人を決定するような状況がここにも見られます。

会場風景 Photo: OMOTE Nobutada

泉:テントが使われたあらゆる象徴的な出来事について考えました。武田さんがおっしゃったホームレスの方たちのテントも、現行社会のルールを遂行する側にとってはシステムから外れた目障りなものだとしても、その存在は抵抗の側面を持ち得ています。あるヨーロッパの国では、車道に挟まれた中央分離帯にテントが並んでいる状況もある。中央分離帯も気になりますね。中間地点が求められているように思う。座り込みのベースとしてのテント、支配的で強固な権力に対抗するために、生身の身体で「そこにいる」ことを手段として仮設的占有をする。

会場風景より、管理人 Photo: OMOTE Nobutada

もちろんレクリエーションとしてキャンプで立てるテントの在り方も考えます。テントが乱立する光景から何を思い浮かべるかは、人によって様々でしょうね。

テントの撤去については、管理者の役割にある人が、あるルールに則って行っていますが、その内容については明かされません。先ほど少しだけ触れましたが、近代、ある古墳が突如として神話の中の天皇の陵墓とされたことを受け、それを見下ろす位置に居住していた人々を村ごと移住させる事業が行われました。その出来事が神話の中で語られることはないでしょう。管理者はVRゴーグルを装着した後、儀式的な行為により間引きのシステムを起動します。

ややこしいことを言うと、この方法の可能性は、管理のシステムを超える場合も含めてのものだと思う。あの空間にテントが増えすぎて管理システムが機能しなくなることもありますし、そうすると新たな体制が整えられてイタチごっこを繰り返します。

武田:いま座り込みの話が出ましたが、今回泉さんが挙げていらしたキーワードに「ストライキ」もありましたよね。前半の展示室で、泉さんの過去作品が、きちんと設営されずにバラバラになったまま床に置かれていました。あの様子はまさに作品自体がストライキを起こしている状態だとすると、そこには何かの強制力に対して抵抗する、逸脱するという姿勢を感じて。だから、ルールとルールに対する反発というのもひとつのテーマになっているのかなと思いました。

会場風景 撮影:編集部

泉:それはたしかにすごく気になっていることで、テーマとか「気になっている」と言葉にするまでもなく、それが生活姿勢です。おっしゃったように、最初の展示室では作品がストライキしているような状況、それぞれの作品は、作品の成立条件を無視しているようなかたちになり横たわっている、人に見せるための枠組みに対してのボイコット状態ですね。

ただ、それでもあそこに「展示」されているのはたしかなのです。本当に僕自身が展覧会をボイコットするというのなら、展覧会をキャンセルし、キャンセルの理由をどこかで表明しておけば済むことかもしれない。それとは違い、僕が考えていたのは、作品がストライキやボイコットを「演じる」こと。あそこにあるものたちは、本当に破壊されているわけではなく、壊れているかのような演出をされている状態なのです。つまり「仮病」と言える状態にある。仮病を表す変換の仕方のひとつに、「Sick play」がありますが、この状況を示すには向いている言い方かもしれない。展覧会準備中にそれが独り言の口癖となり、自宅でも、Sick play、Sick play…と少し高めの声で繰り返していました。

会場風景 撮影:編集部

──仮病ってすごくおもしろいですね。さっき泉さんは言葉が代替品であることや、言葉にすることで起きるズレについてお話されましたが、仮病はその最たるもののひとつという気がします。子供が仮病を使う時に「お腹が痛い」とか言いますが、本人が本当に伝えたいのは腹痛だということではなくて「学校に行きたくない」っていうことだったりする。でもその意志は直接的な言葉として出るのではなく、転換されるというか、仮病というパフォーマンスによって出てくる。

泉:そうなんですよ。仮病の特徴は、意志を伴っているところ、ほとんど意志の介在抜きでは起こせません。風邪などの場合は本人の意志とは無関係に罹患してしまうけれど、仮病は本人によるパフォーマンス及び申告がないと成立しにくい。すごく気になります。

ところで、「仮死」とは、どういう状態なのでしょうか。昆虫などが死を装い、外敵から身を守ることがありますけれど、死という状態が捕食生物からするとほとんど透明になるような、生命維持活動にとっては無用な状態を装うというなら、美術館の壁に擬態することはそれに近いのかもしれない。そういえば、以前は熊に出くわしたら死んだフリをしろ、という話もありましたが、あれは襲われないことを目指すのであれば意味がないようですね。熊の内面、警戒心と好奇心の移り変わりを見極めないと、逃れられない。

武田:でも、仮死というのは装ってるわけじゃないですよね。不可避的に陥る状況というか。

泉:そうですよね。虫などが外敵から身を守るために動かなくなる状態は。擬死ですか?

──そうですね……(ウェブで検索しつつ)それは擬死って言うみたいです。その擬死状態から生きている状態に戻るというイメージに関連づけていうと、展示のなかでボイコット状態の作品の背後の壁に、「ON」と書かれていた手書きの文字も気になりました。作品がON/OFFというのをどうとらえたらいいのかなと。

会場風景 撮影:編集部

泉:あれは、毎日美術館のスタッフの方に、開館時にON、閉館時にはONを消してOFF、次の日の開館時にはOFFを消してONと書くのを繰り返してもらっています。実際にはONと書いたところで機材の電源は入りません。もし展覧会に電気機器が必要な作品が出ている場合、スタッフの方が毎日セットアップの作業をやっています。その一連の動きから目的を剥奪して儀式化し、演じてもらっています。

武田:ストライキの話でいうと、展示の最初にクロネコヤマトの宅急便の箱があって、展示室の最後に鑑賞者がVR作品を見る、結界で閉じられた空間の周囲に黒猫の人形が寝そべっていましたよね。あれはエッセンシャルワーカーの人たちの存在をほのめかしてるのかなと深読みしたんですけど、どんなんでしょうそういう人たちがコロナ禍で非常なストレスを強いられて、それに対してストライキをしているというか、同調圧力から逸脱するような行為をしているっていう含意があるのかなとか思いながら見ていました。黒猫の人形は、病院の入院患者が着る服を着ていましたね。

会場風景 撮影:編集部

泉:猫が着ている衣装は、患者着のかたちをしているけれど、模様のデザインについてはある時代のクロネコヤマトのユニフォームをもとにしています。あの猫達は、手前にある作品たちがボイコット状態にあることと関係しています。作品達の下には、時々クッションが挟まっています。破壊を思わせるような箇所に加えて、居心地のよいボイコットを目指している。クッションはものを輸送する際に使う緩衝材のかたちをしていて、中身は綿などの代わりにモデルになった緩衝材を入れています。このような機会がなければ、多種多様な緩衝材のかたちをまじまじと観察することもなかったかもしれない。

──クロネコヤマトのモチーフは、言葉に対する泉さんの関心ともつながるというか、媒介となって何かを運ぶというようなイメージからきているんでしょうか。

泉:そうですね。彼らが媒介のひとつであることに違いはないと思います。体内で起こっている変化が、即座に私達の表側に現れてこないように、世界の裏側で何が動いていて、何が動いていないかをよくよく見ることに興味があります。

あの猫たちの仮病は、社会システムが歪むほどの出来事があろうとも、もとのかたちに戻ることを執拗に目指してしまう世界に対する抵抗の表明なのか、話が逸れますが、クロネコヤマトのマークは、もともとは子供が書いたイラストからデザインされています。それがマークとして整って現在のようなかたちに記号化されていく過程を見ると、象形文字が漢字として整っていく様子を思い出しました。漢字のかたちを覚えてはいても、最初に変換された文字のかたちを知る人は少ないでしょう。

会場風景 Photo: OMOTE Nobutada

生と死と霊的な存在

──武田さんが翻訳された『ゾンビの小哲学』という本がありますよね。それと関連するのですが、私が最初に展示を見たとき、フォークホラー映画をちょっと想起したんですね。ホラーが好きな人がこの展示を見たらすごくおもしろいんじゃないかと思って。その後『ゾンビの小哲学』を読んで、死者と生者の境界で揺らぐ曖昧な存在としてのゾンビっておもしろいなと改めて思ったのですが、こうした観点から何か思われるところはありますか?

武田:先ほど、美術館のホワイトキューブのコスプレをして同一化して自己消滅するという話をしましたけれども、もうひとつ、テント=墓を建てる、そしてその中に入って休むっていうのも、これは自分で自分を埋葬するような体験ですよね。だから観客は、展覧会を通じて一度自分の死を体験する。その後、観客はまた生き返るのか、半分死んで半分生きているゾンビ的な状態になるのか、どっちなんでしょうね。

会場風景 Photo: OMOTE Nobutada

泉:どうでしょうね。デジタルを介したものに限らず、人の身に起こるバーチャルな出来事には興味がありますが、あれが「バーチャル死」体験かというと、どうでしょう。いつからが死なのか、いつからが生なのか、人がどのようにグラデーションに区切りを付けてきたのか、考えてみたくなります。生者にしかお墓は作れませんしね。生者が知る術もない死者の思想や世界を想像して、自分の知り得ることと交換しながら考え、作られてきたのがお墓だと思う。

テントにプリントされている画像は、ある古墳を内側から撮影した石組みの画像を元に作られています。つまり、本来であれば内側からしか見られないような風景が外側に来ています。鑑賞者がマントを着るということは、たしかに本人の生から遠のいて、まさに無色化しているような気がするかもしれませんが、ただ、あれを着ていると、内側にこもる熱や体にのしかかる重さによって、自分の体がそこにあることを強く感じもする。

武田:そうですね。着ている間、身体の実感はすごくありました。

泉:テントを建てるときにはマントを脱いでいるので、ある意味身体にまとわりつく枷からは解放された状態にはなるのだけれど、一旦テントの中に入ってしまうと、外からは人の存在を確認しにくい状態になる。現状の世界は、見えないことと存在しないことの認識の距離が随分と縮まっている。たとえばSNSの投稿が止まると存在が消えちゃった、みたいな感覚を受ける人が多いかもしれない。あれはどういう状態なのか。

美術館では、展示されて人目に触れているもののほかにも、倉庫には大量に収蔵品が隠されていて、見えることと見えないことが繰り返されているのだから、存在したり存在しなくなったり、あの世とこの世を行き来しているような世界に見えるかもしれない。

──たしかに。「死蔵品」っていう言葉がありますが、これも矛盾を感じますね。死≒消えるということだけど、廃棄されずに確かにそこに存在しているから「死蔵」されているという。

武田:さっき生き返りのことをお話ししたのは、ちょっと通じるような作家として、ブラジルの現代アーティストのリジア・クラーク(1920〜1988)のことを思い出したからなんです。クラークもいわゆる鑑賞者参加型の作品を多く手がけているのですが、それを通じて体験させようとしているのは母胎回帰とそこからの生まれ直しなんですね。今回の展示では、一度お墓に入ってそこから生まれ直すっていうことを私は感じて。

泉:確認できない部分も含めてリジア・クラークの変遷と全体像が気になります。彼女の活動には、展示やイベントといった多くの人に開かれているものと、少人数にしか開かれていなかった精神分析的なセッションのようなものもありますね。見せていることと、見せていないことのバランス……望遠鏡と顕微鏡、ズームで寄ったり退いたり、流れる生命活動を自覚しても、物を残したいと考える人が今でも大半かもしれない。変形し続ける世界を実感するために、展覧会をやめることは選択肢だけれど止まって固まったかたちの展覧会はやらない、かたちを変えるのではなく循環させようと試みている。

ただ、僕は「参加型」という区切り方は得意ではなくて、参加に対して非参加も含まれている、もっといえば展覧会に来ないことの選択も参加的非参加として出来事に含まれてほしい。参加型と非参加型を分けるのは、美術館の壁を真っ白にして存在しないと言い張るのと同じ、誤魔化しにすぎません。凸のかたちだけを見ていてもつまらない。今回のオペラシティにおける出来事は凹凸両面の出来事と言ってみたい。

武田宙也、泉太郎 Photo:Osamu Sakamoto

武田:書かれていたルールの中で、霊的な存在についてもほのめかされていました。さっき私は墳墓の中で副葬品を見ている霊的な存在について話しましたが、そういったものを泉さんも念頭に置かれていたんでしょうか。

泉:テントにプリントされた画像の元になった石室には連日観光客が訪れて、石と石の隙間から内側を覗いていたりもします。石室の内部に納められていたはずの石棺は失われているのですが、もし未だにそこに横たわっている存在がいたとしたら。隙間から覗き込んでいる観光客たちこそが亡霊で、身動きが取れないまま、その視線に晒され続けることになる。逆に観光客側は、そこに寝転んでいる幽霊の姿を期待して、隙間から覗き込んでいるのかもしれない。

おっしゃるように、副葬品や壁画は生きている人が観覧するためのものではありませんが、現代の人が古墳の扉を開いて内側を見ようとしたために、外気にさらされて壁画が損傷したり、消失することもあります。見られないことが幽霊を幽霊たらしめてきた。モニターに向けたリモコンから信号が発信されている様子が僕らに見えているのかというと、見えてはいません。電源が入ったり切れたりすることで、結果的に納得しているだけです。そのプロセスが見えないからといって、リモコンに対して畏怖を覚えている人はあまりいないでしょう。

電気機器と幽霊のイメージは重なりにくいかもしれませんが、僕らは見えていないことに慣れ過ぎたのです。幽霊も正体さえわかってしまえば、というわけですが、本当に理解できていることなど少ないはず。他人に言葉で説得されているだけ……と、いま僕が話しているこの言葉も、誰かを説得するための、まったくの嘘かもしれない。展覧会のウェブサイトの作家ステートメントにも「この文を信じないでください」って書いてあるのですけど、その通り、本当に信じないでほしい。

──取材の前にあのステートメントを読んで、さてどんなふうにこの言葉と展覧会を受け止めればいいのだろう……としばし頭を抱えました(笑)。

会場風景 撮影:編集部

「見られなかった」という体験

武田:陵墓の話に戻りますが、あれも確たる証拠が見つかっているわけではないみたいですね。『古事記』や『日本書紀』に書いてあった場所がだいたいこのへんだろう、みたいな感じで。

泉:そうそう、噂をもとに推測しているようなものなのですよ。

武田:そういう噂のレベルの根拠をもとにして法律が定められてしまうということ、それもルールというものの曖昧さをすごく示唆しているなと思います。

泉:神武天皇陵のように伝説上の人物の墳墓など、ニ千数百年続くグニャグニャした物語に骨格を与えるためだけに、近代に定められた陵墓もあります。皇室関係のものなのか、はっきりしないがその可能性は残っている墳墓の場合も立ち入ることはできません。入れないのだから調査もできず、ずっと宙ぶらりんのまま。そういった領域は「参考地」と言われ、かなりの数があります。

──謎だけど、曖昧なまま、象徴としてストーリーの根拠とされているということですよね。

武田:ルールというものの根拠のなさ、あるいはそこになにか霊的なものが深く関与しているということも、この展示のひとつのテーマになっているのかなと思いました。

──泉さんにとって霊的なものってどういう存在なんでしょうか?

泉:ちょうどいまそこに幽霊が座っている……のが見える、と言ってしまっても良いのですが、その場合、まずは幽霊のための凹空間を想像しないといけない。何か、何かがその辺りにあったかもしれない、じつは見逃してるかもしれないという不安、予感、凹のかたちを想像して、代替としての凸を感じて埋めようとする、そういう動きに関わるものだと思います。凹のかたちを見れなくすることで、凸のかたちをコントロールして、僕らの中に生まれた凹のかたちにはめようとする大きな力、自分からは見えないプロセスや、用途が忘れられた道具の肝心の用途の部分、「歯痒さ」だと思う。

会場風景 Photo: OMOTE Nobutada

今回の展覧会の中には、1日のうちに見られる人の数がかなり限られているものもあります。見られない人が大量に存在することになる。「体験状態」と「非体験状態」は対称ではないけれど、どちらかの紐が途切れて短くなるわけではない。見られるものが人より少なかったから理解のための情報が抜け落ちているのでは? と不安に思う人もいるかもしれません。

しかし、どのような行動を選んだとしても時間が消滅するわけではなく、たとえばテントの中で待っているうちに寝てしまった、それでそのまま閉館の時間になった、という人に対して、この展覧会で時間を過ごしたと言うには足りていませんね、とは思いません。

禁足地、聖地と言われて近付けなかった空間に入れる機会があるのだから、その先が気になるのは当然です。穴からは向こう側の世界が覗いている、立ち入れない陵墓の森のように。限られた人しか入れない棺のような空間では、被葬者が生きているせいで、一緒に祀られている埴輪(展示作品を元にした副葬品)にダメージを与えてしまう可能性もあります。物語に沿って、架空の被葬者となり棺の中に侵入してしまったがために。待ったままを続けることもできる。この展覧会にどれだけ時間をかけるかはまったく人それぞれでしょう。物質ではなく幽霊を保存し続けること。ここにきて、もう一度リジア・クラークを思い浮かべました。

いくつか質問していただきつつ、お話ししてきましたが、僕らはこの対話が公開されることを前提に話しています。普段、言葉を使われる際に、何かサービスと言いますか、読む人に対する気遣いのようなものはありますか?

武田:今日お話しした感想や質問については、私が展示を見て素朴に感じたことや心に浮かんだことを投げかけた、という感じですね。ただ、書き手としては、媒体によって書き方を多少変えるかもしれないっていうところは正直ありますね。

泉:受け取る側の人がどのような人なのか、思い浮かべますか。

武田:そうですね。こういう言い方は誤解を招くかもしれませんが、私の場合で言うと、いちばん「読み手のことを考えない」文章は学術論文かもしれません。学術論文って別に売ってお金をいただくものではないですし、その意味では「世間に何を求められているか」ということに対する忖度はなく、ただ自分が学術的に価値があると信じる内容を探究して、その成果を発表するものです。ただ、商業誌への寄稿など、ジャンルによっては多少書き方を変えることはありますね。

泉:なるほど。僕はアートの場合、開かれていることと薄められていることの違いが見えにくいが故に、この機会では学術論文的に、別の機会では敷居を下げた表現、みたいなタイプの使い分けを考えるのは避けたほうがよいと考えています。ここ二、三十年の間に、裾野を広げる目的で行われてきた取り組みのほとんどは砂で作ったピラミッドのように流されてしまった。道の両脇に花を添えるのも良いけれど、幹線道路が使えなくなった時のためにも中央分離帯の可能性も存分に探しておきたい。いきなり中央分離帯の交通ルールを提案された時に混乱や摩擦が起こるのは当たり前、しかし惑うことや摩擦に慣れていない人も多いですが、それは全くネガティブなことではありません。とはいえ念のため、良い絆創膏をご存知でしたら教えていただきたいな、というのが質問の意図です。

武田:おもしろいですね。「あれはこういう意味なんですか?」と泉さんに聞いて、答え合わせのようになってしまってもいけないと思っていたのですが、それでもつい色々と聞きたくなりました。私が思ったことを泉さんに投げかけて、それに対してまた泉さんがお話されるというラリーを通じて、私自身の作品への理解や解釈として新たに見えてくるものがありました。ありがとうございました。

泉:今日はお話しできて、ピンポンをプレイするように言葉のプロセスを挟み込むことができました。ありがとうございました。

左から、武田宙也、泉太郎。「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」展にて Photo:Osamu Sakamoto


泉太郎
いずみ・たろう 1976年奈良県生まれ、現在東京都在住。2002年多摩美術大学院美術研究科修士課程修了。主な個展に、2023年「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」(東京オペラシティ アートギャラリー、東京)、 「毎晩、紙があります」(SUNDAY、東京)、22年「コドクエクスペリメント」(Take Ninagawa、東京)、20年「ex」(ティンゲリー美術館、バーゼル)、18年「My eyes are not in the centre」(White Rainbow、ロンドン)、「突然の子供」(金沢21世紀美術館、金沢)、「Pan」(パレ・ド・トーキョー、パリ)など。

武田宙也
たけだ・ひろなり 1980年愛知県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。専門は哲学、美学。主な著書に、『フーコーの美学――生と芸術のあいだで』(人文書院、2014)、『フーコー研究』(共著、岩波書店、2021)、『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』(共著、水声社、2021)、主な訳書にマキシム・クロンブ『ゾンビの小哲学――ホラーを通していかに思考するか』(共訳、人文書院、2019)、​​ニコラ・ブリオー『ラディカント グローバリゼーションの美学に向けて』(フィルムアート社、2022)など。

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集。音楽誌や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より現職。