公開日:2024年5月10日

岡田利規は欧州の舞台芸術界でどのように進化してきたか?―フェスティバル文化と公共劇場文化のあいだ 【連載】ヨーロッパのいまを〈観光客〉として見て歩く(9)

2026年から東京芸術劇場の芸術監督(舞台芸術部門)に就任することが発表された、チェルフィッチュ主催の岡田利規。ドイツの演劇祭、公共劇場シーンに焦点をあてながら、ヨーロッパ圏において岡田がどのように受容されていったかを追う。

『ノー・ホライゾン』 © Fabian Hammerl

複雑で多様な問題に同時多発的にさらされる2023年から2024年の欧州を、演劇研究者・内野儀がレポートする本連載。今回は、ヨーロッパ圏でめざましい活躍を続ける岡田利規を集中的に論じる。つい先日、2025年度の東京芸術祭アーティスティックディレクター就任と、2026年4月からは東京芸術劇場の芸術監督(舞台芸術部門)に就任することが発表された岡田を、ヨーロッパのアートシーンはどのように受容してきたか?(Tokyo Art Beat/島貫泰介)

招聘から国際共同製作へ

本連載では、これまで公共劇場vs.フリーシーンという二項をひとつの目安にして、ベルリンの演劇シーンについて書いてきた。ドイツ語圏あるいは欧州で見るなら、フェスティバル文化という〈項〉についても、考える必要がある。

よく知られたフランスのアビニヨン演劇祭や英国のエジンバラ演劇祭のような、夏の期間に開かれる大規模な演劇祭だけでない。この連載でも取り上げた3年に一度のドイツ・世界演劇祭のほか、大小数え切れない演劇祭が各地で開かれている。それぞれには、芸術監督が交代するたびに再定義される芸術的ポリシーがあり、一概に全体の傾向を抽出することは不可能に近い。

たとえば、岡田利規を紹介するなど、非西洋圏のアーティスト紹介に尽力しているベルギー・ブリュッセルのクンステンフェスティバルデザール(KFDA)。あるいは、23年にはChim↑Pom from Smappa!Groupが参加したポルトガル・リスボンのアルカンターラ・フェスティバル(Alkantara Fesival)は、オルタナティヴな回路を切り開こうとする、その〈他〉への関心をいち早く見せたことでよく知られる。

ただ全体の傾向として指摘できるとすれば、すでに評価が確定した作品を招聘する場という演劇祭のイメージはいまや必ずしも正確ではないことだろう。演劇祭のために新作を委嘱する流れが強くなっているのである。舞台芸術の場合、ローカルな文脈で創作された作品を〈芸術の普遍〉の価値基準だけで紹介するのは、無理があることが自明となって久しい。

この問題については、本連載第2回でも触れた(*1)。まずは既存作品が招聘され、そこである種の手応えが得られた場合、その後、国際共同製作に進むという流れができたのである。ただし、この流れにどのアーティストも乗れるとは限らず、日本とのかかわりでは、周知のように、岡田利規/チェルフィッチュが特別な存在として見えている。『3月の五日間』(2004)のKFDA(2007)への招聘から08年の初の国際共同製作(『フリータイム』)へと一気に進んだ流れである(*2)。

国際共同製作から公共劇場へ

その後岡田は、この流れの延長線上でドイツでの存在感を増していく。なかでもここベルリンでは、これまで何度も紹介したHAU劇場とは縁が深い。芸術監督(2003~14)をつとめたマティアス・リリエンタール(Matthias Lilienthal)の招聘により、『3月の五日間』(2008)につづき、09年の『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』が初の委嘱作として上演。『私たちは無傷の別人である』(2010)、さらに『ゾウガメのソニックライフ』(2011)、『地面と床』(2013)、『現在地』(2014)と、国際共同製作を中心とした作品の招聘公演が続く。11年の東日本大震災と前後して、大きくその様相を変えた〈日本〉とその〈日本〉に敏感に応答し続けた岡田とその俳優たちの〈変化〉が、ほぼリアルタイムでベルリンが体感できたのである。

リリエンタールはHAU芸術監督退任後、マンハイムで開かれた世界演劇祭のプログラム・ディレクター(2014)―これは1回かぎりの選任である―となり、そのときには、岡田/チェルフィッチュの『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』を招聘している。演劇祭の委嘱作である。さらに氏は15年、ミュンヘン・カンマーシュピーレ(Munich Kammerspiele)の芸術監督(インテンダント)となり、ここから岡田にとっては、ドイツの公共劇場という別の制度との新たなかかわりが始まるのである。

まず16年、『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』が、劇場所属俳優(アンサンブル)によって、岡田自身の演出で上演された。まずは、すでに上演された作品をドイツの俳優と上演する試みである。

この公演が好評だったことも手伝い、翌年からは新作戯曲の自らの演出による上演が3年間続くことになる。日本語で執筆した新作戯曲をドイツ語に翻訳し、岡田自身の演出による8週間程度のリハーサル期間を経て、上演へと至る公共劇場の創作プロセスをフル稼働してのクリエーションである。金融資本主義の過酷と議会における女性蔑視の問題を扱った『NŌ THEATER』(2017)、〈草食系男子〉の生態を描く『NO SEX』(2018)、引きこもり女性と徘徊老人が痛々しい『掃除機』(2019)の3作である。

『NO SEX』 © julian-baumann
『掃除機』 2019ミュンヘン公演 © julian-baumann

この連作で重要なことは、クリエーションのチームが稼働したことだろう。舞台美術のドミニク・フーバー(Dominic Huber)、衣装のトゥツィア・シャード(Tutia Schaad)、『NŌ THEATER』では常時、舞台に登場していた音楽の内橋和久、ドラマトゥルグのタルン・カーデ(Tarun Kade)と山口真樹子である。また、ドイツ語訳は一貫して、ドイツ・トリアー大学のアンドレアス・レーゲルズベルガー(Andreas Regelsberger)が担当している。このチームは、劇場所属のドラマトゥルグをのぞき、後述するハンブルクでの2作品の創作チームとなる(*3)

ミュンヘンでの成果

ミュンヘンでの成果のひとつは、『掃除機』が20年5月のベルリン演劇祭に招聘されたことである。これまで本連載で触れてきた、ドイツ語圏で上演された400以上の作品から10作が選ばれて上演されるフェスティバルである(20年はコロナ禍によるネット開催へと変更)。ここに選ばれたことで、岡田のドイツ演劇界での存在は、確固たるものになった。

もうひとつは、芸術監督を退くことになったリリエンタールの退任記念公演の作・演出が、岡田に託されたことである(*4)。コロナ禍だった当時、厳しい移動制限があったにもかかわらず、関係者の尽力で岡田は渡独することができたのである。わずか5日間のリハーサル期間を経て上演された作品は『開会式』と題され、20年7月、ミュンヘンのオリンピックスタジアム全体を使った屋外スペクタクルとして発表された(ここでも音楽は内橋が担当している)。その年、開かれる予定だった東京オリンピックへの批評的応答を含みつつ(スーパーマリオが登場する!)も、主としてリリエンタールの業績への賛意を、テロで揺れることになったミュンヘン・オリンピック(1972)の主会場で示すという、奇跡的といっていいような一回だけの刺激的なイベントだったのである。

リリエンタールの退任後、それほど間を置かず、岡田にはまた別の公共劇場から声がかかる。ハンブルクのタリア劇場である。

マティアス・リリエンタール退任記念の「OPENING CEREMONY」 © julian-baumann
マティアス・リリエンタール退任記念の「OPENING CEREMONY」 © julian-baumann

ミュンヘンからハンブルクへ(1)―『ドーナ(ッ)ツ』

コロナ禍を経た22年、ハンブルクの公共劇場タリア劇場が、岡田に新作を委嘱し、1月、初演を迎えた。『ドーナ(ッ)ツ』である。この作品もまた、ベルリン演劇祭に選ばれることになる。本作はレパートリー作品なので、23年も上演が続いており、筆者は23年10月17日の上演に立ち会うことができた。

『ドーナ(ッ)ツ』の舞台は、おそらく東京にあるホテルの高層階のロビー。「地球的規模の危機への対応策」を考えるカンファレンスに参加するイワモト/オオジマ/フナボリ/モリシタ/ササズカさんの5人―すべて都営新宿線の駅名である―が、これから会場に向かうためにタクシーをフロント係のキミドリさんに頼む。周囲には霧が立ちこめ始め、やがてホテル全体が濃霧に囲まれるなか、霧や霧を原因とする事故のため、いつまでたってもタクシーは来ず、メンバーはだらだらと会話を続ける。

ただし、誰一人として、実際に何が起きているかを知るために、ロビーを離れようとはしない。時折やってくるキミドリさんの言葉を信じるだけで、自分の目で確認しようとはせず、ただ、議論する。状況への感慨を述べ、対応を考え、分析する。でも、動かない。いや、動けないのか。

そしてついに、幕開きからスマホのネットニュース・ネタとして言及されていた、山から下りてスーパーに侵入した熊が、なぜか、キミドリさんとなって、また猟銃を手に現れ、一同凍り付くことになる。

『ドーナ(ッ)ツ』 © Fabian Hammerl

劇中、頻繁に言及される「エクスクルーシヴ感」。そう名指すことで、自らはそうした格差実態から免除されると考えていることからして、無自覚なグローバルエリートの自己欺瞞的集まりであることは一目瞭然である。世界を憂い、濃霧を憂い、言語化し分析するが、実際には何もしない/できないのである。そのことは、唯一、ロビー空間から自由に出入りできるキミドリさんの自由闊達で〈でたらめ〉でもある身ぶりとの比較対象からも明らかである。グローバルエリートたちの身ぶりは、不自由ではないし優美な瞬間がないわけではない。それでも、ギクシャク感が残像として残るような類いのものだ。

こうしたプロットの肝要な線を、タリア劇場の所属俳優たちは、じつに見事に演じる。いつもの岡田演出らしく、それぞれに固有の動きが、必ずしも台詞の意味とは関わることなく次々と繰り出される。内橋の音楽が、俳優たちの身ぶり始動や変調の一つのトリガーともなる。幕開け当初のエリック・サティ調のゆったりした退廃的音楽から、管楽器風のサウンドによるコミカルなトーン、さらに終盤に近づくと、多少ともにアップテンポで深刻さを喚起するメロディラインへ。

フーバーの回転する舞台美術もまたきわめて有効で、このロビー空間の孤立感を、黄緑色を基調とした効果的な照明とともに、見事に、演出する。回転の速度は可変で、幕切れに向かっては、かなりその速度が上がったりもするのである。

この作品を見た批評家の一人は、「例外的な舞台詩」と評した(*5)。グローバルエリートの欺瞞もそれへの抵抗も、既になじみの光景である。しかし、このように見せられることこそ希有な劇場的体験だ、というのである。

『ドーナ(ッ)ツ』 © Fabian Hammerl

アンサンブル俳優たち個々の身ぶりの多様性/多義性が、これまで以上に印象的に残る上演だった。そこには、グローバルエリートらしいスマートなやり方で脚を即座に組んだり戻したりという所作だったり、なぜか急遽、ソファで体操競技の平均台での演技のプロセスをやってみせたりといった具体的な身ぶりも含まれる。しゃがみこむ、すわりこむ、へたりこむ、といった動きもまた有効だった。

岡田演出はこのように、台詞、舞台装置の空間性、照明、そして音楽といった劇場的手法を総動員した細かいディテイルを積み重ねることによって、この空間に漂うコンフェレンス参加者の漠然とした〈不安〉〈怖れ〉の感覚と、対照的なキミドリさんの〈確信〉〈でたらめ〉を詩的(=演劇的)に醸成するのである。

舞台詩とは何か

『ドーナ(ッ)ツ』後、岡田はノルウェー国立劇場で『部屋の中の鯨(A Whale in the Room)』(22年11月、ノルウェー語上演)、本連載第2回で取り上げた『リビングルームのメタモルフォーシス』(ウィーン芸術週間、22年5月)、そして『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』(東京公演、23年8月)と立て続けに新作を発表。9月末には再びハンブルクに入り、12月2日『ノー・ホライゾン』をタリア劇場で初演した。

『部屋の中の鯨』は、鯨の腹の中にとらわれた反捕鯨派の6人を描き、『リビングルーム』は、〈気配〉に浸食され解体される家父長制の閉じた空間がその舞台だった。『宇宙船』の舞台は、文字通り暗黒の宇宙に浮かぶ閉じた空間であるという性格と、すべては乗組員の夢という性格を与えられていた。戯曲のテーマ的に選ばれたこの〈閉鎖性〉の空間は、同時に、上演空間の自明な〈閉鎖性〉とも呼応する。

どういうことか? 上演空間はそれ自体として自立する〈閉鎖性〉のフィクション空間であることが、近代演劇以降の演劇の前提となっている。ガス・電気照明の時代になって、観客席の照明が消える前には、その前提には無理があり、舞台に〈没入する〉ことなど、誰も考えてはいなかった。しかし、照明が消えて〈没入〉〈同化〉が前提となると、今度はそのフィクション空間の圧倒的な自立性=〈あたかも、as if〉のイデオロギーのみに支配され、〈形式の透明化〉の徹底とノイズの排除が当然になる。いってみれば、内容的なリアリティだけが特権化されたのである。

このことについて岡田は、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』によせて,こう書いていた。

宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』では、内容的な〈リアリティ〉と形式的な〈リアリティ〉、どちらの〈リアリティ〉も複数、並列的に提示されます。/演劇において、舞台の上で、せりふがある言語で発される……。/そのことの意味・機能についても、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』では複数のそれらが提示されます。/それは、あたかもマルチヴァースのようだ、と言えるかもです(*6)。

ここでは、「複数」の「並列的」演劇的リアリティというところに注目しよう。これはある意味、当たり前のことを言っているようにも聞こえる。そもそも演劇とはそういうものではないか、ということだ。しかし、とくに近代演劇以降、こうした事実として存在する「複数」や「並列的」をノイズとして排除してきたことは、すでに見てきたとおりである。

だから岡田は,ここでもう一度、「複数」と「並列」に注目すべきだといっていると考えられる。ただし、演劇のノイズをノイズとして放置するということではなく、ノイズをノイズのまま、上演に有機的に組み込むことが目論まれていることには注意が必要だ。その瞬間瞬間に生起する〈イメージ〉。その〈イメージ〉は、複数性として、あたかもマルチヴァースへの〈とば口〉のように、機能する。台詞の言葉自体、俳優の音声、身ぶり、音楽、舞台の空間性、照明や衣装による物質感と色彩感、俳優の身ぶりといった諸要素が偶発的に〈並列〉されて観客の脳裏に諸イメージが喚起される。舞台詩とは、こうした有り様を指し示すのではなかったか。

ミュンヘンからハンブルクへ(2)―『ノー・ホライゾン』

23年12月にタリア劇場で初演された『ノー・ホライゾン』では、『ドーナ(ッ)ツ』の内外が反転したかのように、霧が舞台全面を覆う。ここはVR空間であり、匿名のアバターたちが集っている。ベンチや滑り台やジャングルジムに加えて街灯がある公園的な場所である。

きうり、というアバター名の人物がこのVR空間を設計したようだ。そこに、宇宙、にゅーぽりゅ 、covfefe、クウドウデスなる4人が集まっている。

上演はまず、設計者のきうりによるこのVR空間を理解するためのステートメント―「リアリティはステージの上にある/わたしたちがそれを生み出すことによって/そのステージの上のリアリティの中でわたしたちは生きている/そこにはわたしの音楽が流れている」(*7)―で始まるが、それに応接するように、ここでは植物が自ら動くことを観察できるという宇宙の印象的な台詞がつづく。

宇宙 (足元を見て)ほら、ここにいるこの植物ね(しばらく眺める)目を惹くような派手さがあるわけではないし、名前もわたしにはわからない(略)ずっと眺めてても、飽きがこないでしょ(略)ほら、わかるでしょ、動いてるのが(しばらく眺める)そしてこの動きがね、風で揺れる、みたいな外側から力の作用を受けての動きではないということも、見ていたら明らかでしょ。

だから宇宙はこの〈ノー・ホライゾン〉と呼ばれるVR空間を選んだと説明する。こうして他のアバターたちも、それぞれがなぜここを選んだかを説明する。「あっちの世界」(=現実)と異なり、何もかも自由であるということらしい。〈アバター=身体〉の形態すら自由だしクウドウデスに至っては、VR特有のアバター名の文字だけの〈身体〉(=「姿ナシ」)だが、システムのバグのためか、動くとわずかに「ビットの揺らぎ」(covfefe)が察知される。にゅーぽりゅの場合、その髪型が七次元だという。ただし、そうした「多次元のイメージを造形できるサービス」(にゅーぽりゅ)にもとくに課金はない。数あるVR空間のなかで、〈ノー・ホライゾン〉だけは、厳しい課金システムを採用しておらず、「資本主義的力学」(クウドウデス)から自由なのだ。

こうして、きうりがいるという「海辺の灯台」に皆は向かうことになる。それはまた、この〈ノー・ホライゾン〉に本当にホライゾンがないのか確認する旅でもある。実際「海」まで到達するが、そこが単なるデータの終わりの領域なのか、何か別のものなのかもわからない。水着を着て中に入っても、そこが海なのかどうなのかもわからない。

そしてついにきうりと出会うことになる。きうりは「設計の思想」など語ることなく、にゅーぽりの七次元の髪型の切れ目から、「霧が漂う」「うち捨てられたかのようにいくつかの遊具がたたずむプレイグラウンド」、つまり、「あっちの世界」(=現実)が見えることを教える。「しばらく見ないうちに、こんな終末的な雰囲気になってしまっ」た現実である。きうりはしかし、〈ノー・ホライゾン〉のリアリティを仲間たちに強調して幕となる。

いや、そうではない。私たち観客の眼前にあるのは、「霧が漂う」「うち捨てられたかのようにいくつかの遊具がたたずむプレイグラウンド」そのものではないか。つまり、ここにいたって、私たちは、「あっちの世界」の〈現実の身体〉を見せられていたことに気づくのである。

『ノー・ホライゾン』 © Fabian Hammerl

いや、ちょっと待て、とさらに問わねばならない。「あっちの世界」で,この人物たちが物理的に出会うなどということは現実的にはありえないからである。だから、今見ている上演もまた、なんらかの〈メタヴァース的リアリティ=演劇のリアリティ〉なのである。

だからきうりは、常時舞台空間にいて、公園内に入ったり周囲を動き回るし、動いているはずの植物は物理的には存在しないし、にゅーぽりの髪型は七次元ではない。みんなに聞こえてくるきうりの音楽は、観客には聞こえないし、海への「道行き」は公園内を徘徊するだけである。

こうして観客には、俳優の身体の〈三層〉への応接が必要となる。まずは、「ここにある」身体。そして、「ここにはない」VR空間でのアバターの身体、さらに、おそらく各自の個室でVR装置の画面に見入っている、「ここにはない」身体。観客はこうして、見えないものを見、聞こえない音を聞くことが求められる。見えるものを凝視し聞こえる音に耳を澄ますことを求められる。だからこその、舞台詩である。岡田利規の進化は止まらない。そして、ドイツの公共劇場という〈制度〉こそが、岡田の進化を加速的に促していることを、私たちは忘れるべきではない。現に、岡田はその後、また別の公共劇場であるデュッセルドルフ・シャウシュピールハウスからの委嘱による新作『Homeoffice』を4月20日に初演している。ますますドイツでの活躍が期待されているのである。

*1── https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/uchino-tadashi-features-202306
*2── 国際共同製作の本稿での定義は、資金提供をはじめ、作品創造に、国境を越えた複数の組織が関わって行われる創作のことである。たとえば、『フリータイム』には、共同製作として、KDFA・ウィーン芸術週間に加え、フェスティバル・ドートンヌ(Festival D'automne、フランス・パリ)が入っている。
*3── ハンブルクの2作品では、ドラマトゥルグにカーデに代わって、タリア劇場のユリヤ・ロホテ(Julia Lochte)が入った。
*4── 南ドイツ新聞(Süddeutsche Zeitung)のクリスティーネ・デッセル(Christine Dössel)によれば、本来は、ミュンヘン市内各地で行われ、バスで巡回する24時間のイベント『オリンピア2666(Olympia 2666)』が企画されていたが、コロナ禍のために中止となった。このイベントのために招聘された10名のアーティスト中に、岡田は含まれていた。またオリンピックスタジアムは7万人収容だが、コロナ禍のために、観客はわずか400名に制限されたという(https://www.sueddeutsche.de/kultur/matthias-lilienthal-kammerspiele-1.4964675)。
*5── https://www.nachtkritik.de/nachtkritiken/deutschland/hamburg-schleswig-holstein/hamburg/thalia-theater-hamburg/doughnuts-thalia-theater-hamburg-die-menschen-in-toshiki-okadas-poetischer-buehnenfantasie-stecken-in-einem-hotel-fest-waehrend-draussen-die-welt-im-chaos-versinkt?highlight=WyJ0b3NoaWtpIiwib2thZGEiXQ==
*6── https://chelfitsch.net/activity/2023/06/in-between.html
*7── 台詞は日本語上演台本より。以下、同様。

内野儀

演劇研究。1957年京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年4月より学習院女子大学教授。ベルリン自由大学国際演劇研究センター “Interweaving Performance Cultures”招聘研究員(2015-6年)、同大学演劇学研究所客員研究員(2023-4年)。専門は表象文化論(日米現代演劇)。単著に『メロドラマの逆襲―〈私演劇〉の80年代』(勁草書房、1996年)、『メロドラマからパフォーマンスへ―20世紀アメリカ演劇論』(東京大学出版会、2001年)、『Crucible Bodies: Postwar Japanese Performance from Brecht to the New Millennium』 (Seagull Press、2009年)。『「J演劇」の場所―トランスナショナルな移動性(モビリティ)へ』(東京大学出版会、2016年)。共著に『Brecht Sourcebook』(Routledge、2000年)、『Tokyogaqui um Japao imaginado』(SESC SP、2008年)、『亞州表演藝術――從傳統到當代』(進念‧二十面體、2013年)、『Okada Toshiki & Japanese Theatre』(Gomer Press、2021年)、『Staging 21st Century Tragedies』(Routledge、2022年)等。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「Dance Research Journal of Korea」(韓国)国際編集委員、「TDR」誌(Cambridge UP)編集協力委員。