最終更新:2021年11月2日

なぜ、青木繁《海の幸》と“共演”したのか。「ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 森村泰昌 M式『海の幸』ー森村泰昌 ワタシガタリの神話」を語る

蔵屋美香(横浜美術館館長)が美術家の森村泰昌にインタビュー。(構成:島貫泰介[美術ライター/編集者])

森村泰昌。アーティゾン美術館にて 撮影:吉次史成

現在、東京・京橋のアーティゾン美術館にて、森村泰昌の個展「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×森村泰昌 M式『海の幸』ー森村泰昌 ワタシガタリの神話」が開催されている。会期は2022年1月10日まで。

「ジャム・セッション」とは、西洋絵画や陶磁器、中国・日本書画から現代美術まで、日本有数の質を誇る石橋財団コレクションと現代美術家が共演する企画。昨年行われた第1回の鴻池朋子に続き、第2回となる今回は森村泰昌が抜擢された。

約2800点におよぶ同館のコレクションから、森村が“共演相手”として選んだのは、明治期を生きた早世の洋画家、青木繁による代表作《海の幸》(1904)。本展では、《海の幸》に描かれた10人の生まれ変わりとして、森村が85人の登場人物に扮している。これまで、アンディ・ウォーホル、フィンセント・ファン・ゴッホ、フリーダ・カーロ、フェルメール《真珠の耳飾りの少女》のモデルといった古今東西の人物に変身してきた森村は、なぜ数あるコレクションのなかからあえて青木繁の《海の幸》を選んだのか?

今回は、横浜美術館館長であり、「青木繁と近代日本のロマンティシズム」展(東京国立近代美術館、2003)にも携わった蔵屋美香が森村にインタビュー。日本の近代美術の受容と重要性、本展から見える青木の人物像や、森村のこれまでと現在について話を聞いた。

森村泰昌。アーティゾン美術館にて 撮影:吉次史成

「日本の近代美術が嫌いだった」

蔵屋美香(以下、蔵屋):展覧会カタログに「日本近代が嫌いだったのだけれど、最近なんだか目が行くようになった」と書かれていたのが印象的でした。私のようにもともと日本近代を専門にしている人間は、「ようやく森村さんに目を向けていただいた!」と喜んでいます。そのあたりからうかがってもよろしいでしょうか?

森村泰昌(以下、森村)::日本で生まれ育って、美術に興味を覚えて高校のときに油絵をやり始めた僕自身が、かつて青木繁らが近代の日本で油絵をやりたいと思ったあの感覚に近いんじゃないかといまは思っています。でも若い頃の自分の憧れは、マネとかゴッホとかそういう西洋絵画のほうに行っちゃった。当時の自分からすると、日本ではなくいわゆる本場の絵を学びたい、参考にしたいって気持ちが強かったものですから。

その気分はずっと続いて、吸収するのが早い10代の時期は先へ先へといろんなものにハマっていって、そしてアメリカの現代美術まで行ってしまって、高校2年生の夏休み明けぐらいには「油絵はもう古い」みたいなことになってしまってましたね(笑)。

蔵屋:ふふふ(笑)。

森村:ですから日本の画家たちは、長い間ほとんど興味の対象外でしたし、それで問題がなかった。しかし、その認識を改めさせたのが松本竣介です。2011年に岩手県立美術館で予定していた展覧会(「森村泰昌『人間風景』〜萬鉄五郎 松本竣介 舟越保武のために」。だが本展は結局、開催されざる幻の展覧会に終わった)の開催に関して話し合う時期があったのですが、震災直後の時代感覚と、松本らが描いていた時代の危機感みたいなものが痛烈に重なって、当時のそうした画家の生き方や気持ちのあり方が「なんだかすごくいいなあ」と感じたんです。

県立美術館でスケッチや画集をたくさん見せていただいたのですが、めちゃくちゃびっくりしたのは、僕が主に高校生の頃に描いていたスケッチとそれらがそっくりだったことでした。僕は松本竣介のことを当時はまだ全然知らなかったのですが……知らないあいだに自分がなんらかの影響を受けて「絵ってこういうものなんや」と見様見真似で描いてきたような気持ちになって、非常に近さを感じました。自分の感覚のルーツみたいなものが、もしかしたらそういうところにあるのではないか、という。

森村泰昌 撮影:吉次史成

森村:竣介が書いた文章「生きてゐる画家」と、その論争がありますよね。このやりとりのなかで竣介は「君らのやってるのは、フランスの出店か?」みたいなことを言われたりするのですが、それに対して彼はこんな風に反論するわけですよ。最終的に目指しているのは、日本の絵でも西洋の絵でもないと。インターナショナルとか日本のとか外国のとかじゃなくて、それを超えた素晴らしい絵を描くことが大きな目的であって、そこに向かって自分らは進んでいるんだ、と。

それを読んで「あ、これはいわゆるグローバリズムとはぜんぜん違うな」と思ったし、そこを読み誤って「世界に通用する日本文化を育てよう」なんて解釈されるのは勘弁してほしいとも強く思いました。そして、後世の我々は松本竣介的な精神を正当に引き継ぐ必要があるのではと思いあたったんです。それが後世の我々に課された宿題かな、みたいなことを感じながら。

萬鉄五郎もそうですが、彼らは完全に西洋の美術を誤読していて、世界のどこでもお目にかかれないようなケッタイな絵を描いている。でもそれは日本の文化や美術の誤読から絵を描いたゴッホとおあいこで、結果としていろんなことを考えさせられたり興味を持たせたりするならば「誤読大いにけっこう」という気持ちで、竣介や萬に扮して作品を作りました。でもやっぱり残念なことに、あんまり人気のある作品にいまだにならずにいます(笑)。チャンスがあればその後も日本近代美術に扮する作品をやりたかったのですが、たとえば海外の美術館からは「西洋美術はウェルカムだけど日本の方はいらないです」とか言われてね。

まあ、そんな感じでだんだんと近代の日本に興味を持つようになり、竣介からさかのぼって、着物を着るけど洋服を着る人もいる、文学が文語から口語になっていった明治時代へと数珠繋ぎにつながっていき、そしてその同時代の画家として青木繁がいる、というのが今回の展覧会の大事なポイントになっているんです。

会場風景 撮影:木奥惠三
会場風景 撮影:木奥惠三

《海の幸》をモチーフにするという決断

蔵屋:森村さんが青木繁の自画像(《自画像》、1903)に扮した作品(《自画像 / 青春(Aoki)》、2016、21)を見て、青木の特徴である赤い輪郭線が背景の壁にまではみ出して引かれているのがすごく面白いと思いました。実際青木の自画像って、どこまでが身体なのかよくわからないですよね。輪郭をいくつも描いて、どれが自分の身体なのか決まらないうちに顔だけが出来上がったような変な絵です。それはつまり、青木繁という青年も近代の日本も、自分の輪郭がよくわかっていない、という状態を意味していると思うのです。

これは森村さんの映像作品《ワタシガタリの神話》の構造にもつながっています。青木に扮した森村さんが鏡に向かって、「あんた、なかなかうまい絵描きはる。一瞬のことやったけど」と語りかける様子は、森村さんが青木に言っているようにも、青木が青木に言っているようにも、森村さんが森村さんに言っているようにも、青木が森村さんに言っているようにも見える。そしてそれが、迷子となった日本近代の壮大な物語となって、《M式「海の幸」》のシリーズへと広がっていきます。

私は、もう20年来、萬や岸田劉生といった近代の作家たちは面白い、現代のアーティストにもヒントになる点がたくさんある、と言い続けているんです。でも多くの場合、それこそ森村さんの感じられたように、「田舎の恥ずかしい親戚」みたいに扱われてしまうんです。ヨーロッパの絵画と比べて、彩度の低いお醤油で煮しめたような色合いや、モデルの体型のもたもたした感じが垢抜けなくて、嫌われてしまうのかもしれません(苦笑)。それでも、森村さんが先ほど、「これまでなくても問題なかった」とまでおっしゃったのは、やっぱり衝撃でした。

会場風景 撮影:木奥惠三

森村:そうなんです。問題はなかったんですよ。それどころかどう扱っていいかわからずに、問題外ですらあった。それが自分のなかで問題になってきて、やっとそこに向き合えたのですから、これはやってよかったなと思っています。

日本文化やなんやらの影響を受けて日本語で喋る環境で育っているのに、ずーっと西洋美術史をぐるぐる精神的に彷徨ってきた私、日本に戻れない自分というのが私のなかには確実にある。長いあいだ、「じゃあ日本物をやればいいじゃないですか。あなたの手法なら何だってテーマにできるでしょう」と言われてきましたが、そう簡単にはなかなかいかない。精神的に西洋各地を旅して、フリーダ・カーロで「ついにメキシコまで来た!」と思っていたら「いやメキシコも西洋やん?」と言われてしまったり(笑)。で、またぐるぐるして、三島由紀夫をやったら戻ってこられるかもと考えてみたりして……。ようやく松本竣介でぼちぼち一時帰国したような感じなんです。

原美術館でやった展覧会(「森村泰昌:エゴオブスクラ東京2020―さまよえるニッポンの私」、2020)のテーマが、まさに「日本に存在している私とは何か?」でしたから、私自身がそういう時節に来ていたので、古今東西のさまざまな作品をコレクションされているアーティゾン美術館さんからの依頼は非常にぴったりくる感じがしたものでした。企画当初は、マネの自画像を題材にする、という案もありましたね。

蔵屋:あ、そうか、てっきり最初から青木繁ありきの企画なのかと思っていましたが、アーティゾン美術館のコレクションの中から西洋絵画を選ぶという手もあったんですね!

森村:もちろんありました。でも昨年の「エゴオブスクラ」の延長線上でテーマを考えると、絶対青木繁やし、彼のすべてを含む一枚といえば、やはり《海の幸》(1904)。たった一枚の作品を選んでひとつの展覧会を作るというのも大胆な決断でした。

蔵屋:《海の幸》が青木のすべてを含む、というのは、まさにその通りだと思います。《ワタシガタリの神話》の中で森村さんは、《海の幸》は、青春のエネルギーの勝手な発露というレベルを超えて、個人の手から何者かに「召し上げられ」て、「神話」になった、そんな僥倖としての作品なんだ、と語られていましたね。

会場風景 撮影:木奥惠三

微妙な危うさを持つ《海の幸》

森村:最初に《海の幸》を見たとき、多くの人は「何やこの(中途半端に描いたような)いいかげんな絵は」と思うんじゃないでしょうか。でも僕自身のテーマに引きつけるならば、まず見なければいけないのは足元。右端の人の足の先が描かれてないように見えるけれど、じつは波しぶきや砂の奥に隠れているのがわかってきます。さらに描かれているそれぞれに体の大きさも違うし、一見すると並列にだーっと描かれているように感じるけれど、じつは奥行きが意識されている。下書きの段階ではわりと平面的なので、描いていくうちに奥の方への意識が芽生えたんでしょうね。かといって青木自身が深く頭で考えて描いていたかというと、そんなことはないと僕は思うんですけどね。絵としての強度を求めての判断であって、このままだと「これは平板に過ぎる絵だ」とか言われるに違いないと考えたんじゃないかなあ。

蔵屋:青木の先生である黒田清輝は、当時19世紀のヨーロッパで流行していた壁画を日本に定着させようとしていたんです。次々と竣工する明治の西洋建築を立派に装飾するためです。その極意は、壁に変な遠近感が出て見る人の目が回らないよう、なるべく平面的な感じに仕上げること。人物も、重ねたりすると奥行きが生まれてしまうから、ずらっと一列に並べるんです。青木の頭にも最初はそういうもののイメージがあったのではないでしょうか。でもそれが描いているうちにどんどんずれていく。

森村:遠近法を学ぶ世界で生きているがゆえに、どうしても遠近感を持たせざるをえなかった。その曖昧さ、迷いが作品に残されていて、後世の人に戸惑いを与える絵になっていると思います。本人はただ、一生懸命に良い絵を描きたかったのだと思います。僕は「思し召し」という言葉を使ったけれど、思し召しによって性格が変貌したり、ワープしたりしてきたのがこの絵の運命だったという感覚です。

会場風景より、手前が青木繁《海の幸》(1904) 撮影:木奥惠三

蔵屋:青木は洋の東西を問わず、「神話」というものに興味を持っていました。万葉集など古代の海を発想源に持つ《海の幸》にも、もちろんその雰囲気があります。でも《海の幸》の場合、それは主題のレベルというよりも、たとえば森村さんが指摘される遠近法の使用によって、画面の両端がぼやけていて、まるで人物たちが時間の霧の向こうから現れてまたどこかへ消えていくように見える、といった表現のレベルの話なのだと思います。あるいは、右から左に向かって人物が年を取っていって、まるで生命の成り行きを描くような円環構造が生じている点とか。

森村:でもね、神話の世界を描くとして、本当に神話をテーマにしたら、もうそれは「神話」にはならないんですよ。絵っていうのは。そこに青木の限界があるけれど、《海の幸》の青木は、わからないなりに一生懸命やっていて、だからこそ「神話」になり得たということだと思います。あんまり知りすぎてはよくないという、物づくりの難しさですね。そういう、微妙な危うさのある絵が《海の幸》。

蔵屋:青木は黒田が嫌いで、教室に入ってくると部屋を出ていったというエピソードが残されています。でも、壁画みたいな発想はやっぱりどこかで学んでしまっているんですよね。

森村:青木もめちゃめちゃ迷ったと思いますよ。実際、黒田先生の教えに忠実な画家、先生に褒められるタイプの絵、戦略的に出世できる絵を描いた若者はたくさんいたはずです。でも青木は変に迷っている気がする。しかもそれは黒田先生が迷ってほしいような迷い方でもなくてですね、とにかく、青木繁は生き方のヘタな人、上手に世渡り出来ないタイプの画家。だから好きですね。

蔵屋:最初に話に出た、青木の自画像に見られる赤い線ですが、あれは当時のヨーロッパのアカデミーの画家たちも下描きであたりをつける際に使ったもので、黒田の一部の作品にも見られます。これもまた青木が先生から受けた影響なのかも知れません。でも青木のそれは、下描きの範囲を超えて、お行儀の悪い「ためらい箸」のようにひたすら迷い続けるものになっていて、かなり異様な感じがします。

森村:あの赤い線は青木の最大の特徴で、あれがなかったら絵が成り立たないでしょう。線なしで放っておいたらぐちゃぐちゃのカオスになってしまう。そこに赤い線がギリギリのところで出てくるから、なんとか秩序が生まれる。かといってそれがはっきりしてしまってもつまらなくなるのも彼はわかっている。そのためらいによって、ぐちゃぐちゃになる自分のエゴを維持させているというか。その緊張感によって、良い絵になってるなあと思います。

蔵屋:《海の幸》をもう一度なぞるような最晩年の《漁夫晩帰》(1908)。あれは悲しいことに、だいぶつまらない絵に見えます。

森村:申し訳ないけれど、学生コンクールの延長みたいで、あまりにも素朴で、かつての複雑さが出てこなくなってしまった(苦笑)。全部輪郭線があって、目も鼻もあって、すべて説明しちゃっている。カオスがなくなり秩序が生まれたけれど、「ああ秩序だけではこんなに世の中って面白くないんだ」と教えてくれる絵ですね。

会場風景 撮影:木奥惠三

100年以上の時を超え感覚が重なる瞬間、その醍醐味

蔵屋:森村さんのキャリアにも触れながら話を続けましょう。森村さんの世代は「日本の現代美術は面白いぞ」と世界に評価された最初の世代だったと思います。その評価とは、エキゾチックな「日本」に対するものではなく、むしろ文化のごった煮として自分が成り立っていることを自覚し、これによって、世界のどんな地域にも伝わる表現を生み出している、という点によって得られたものだと思います。

たとえばヒップホップが大好きな若者に対して、上の世代の人たちが「いや、あれはアメリカの黒人の貧困とか差別とかいった問題の中から出てきたもので、軽々に好きだなんて言ってはいけない」とたしなめたりすることがあります。でも、若者はヒップホップの誤読を通して自己を形成しているから、そういう人間であるということをもう否定できない。でも、そういう人間こそがむしろ世界中に無数にいるのであって、だからその表現はさまざまな地域に受け入れられる。これまでの森村さんのお話は、これに近いことをおっしゃっている気がします。

また、1990年代はいまに比べてだいぶ素朴な時代で、こうした意味での世界的な「評価」が、必ずしも国際マーケットでの成功として捉えられてはいなかったような気もします。

森村:そうですね。1980年代後半のバブル絶頂期と崩壊の予兆を経験しながら、欧米や日本の現代の文化になんだかんだと興味を持っていたのが当時の僕で、それが突然ヴェネチア・ビエンナーレに行くことになったりしてしまって、日本の大阪に住んでいても海外のいろんな国々で作品を発表することがさほど難しくない環境が自分のまわりに生まれていきました。日本美術史と西洋美術史の2つのラインに分けて考えることが出来ない、それまでの美術史の文脈が変わりつつある状況に、僕らの実質的なデビューがあったと思うのですが、そういう人間として、自分はちょっと責任を感じています。

蔵屋:なるほど。

森村:少なくとも僕自身は、いま当然のように考えられている「世界に通用する芸術文化」なんてものは目指していなかったはずなんです。乱暴に言ってしまうと、美術の世界で作品の値段が高くなれば良い、作品がどこそこにコレクションされれば良い、コレクターにつながるアートフェアで作品が完売したかどうかか成功の分かれ道である、という価値観ではなかったんです。ですから、現在のような経済に対して意識のある現代美術の文脈の出発点に自分が位置付けられると「ちょっと待ってくれ」と思います。かなり話が合わないことになってしまうので、その前提の部分をまず話さなければならない。たとえば僕は、カタカナの「アート」という言葉を使いません。

蔵屋:「美術」は明治5年に翻訳語として作られた言葉ですよね。これも、我々の「恥ずかしい親戚」としての故郷の風景であって、そこを忘却せず「美術」という言葉を使い続けることは重要だと、わたしも思います。

森村泰昌 撮影:吉次史成

森村:青木繁は明治以降の日本の美術史のなかで、当然重要な画家として位置付けられていますが、その位置付けを、ちょっと違った歴史をイメージしながら再発見したというのが今回の展示のテーマであって、もしもこれが歴史絵巻、壮大な物語みたいなものになっているとしたら、その根底にはこういった意識があるからかもしれません。明治以降の美術や文化、日本の歴史を追体験してなぞるという発想ではなく、再編集して、違った歴史、美術史に組み替える作業を意識したつもりです。

蔵屋:いわば意図的な「誤読」ですね。西洋物に対して日本物は人気がないとおっしゃっていましたが、人気のあるなしに関わりなく、森村さんにはぜひやり続けていただかなければならないことなのだという気がします。

森村:蔵屋さん、それは他人事じゃないですよ(笑)。僕らはそうやって作品を作るけれど、その問題意識をキュレーションする人が必要だから。「こうちゃうかなあ……?」と僕らがやってることを、どれぐらい周囲の人が「そや!」と言ってくれるかどうかはとても気になるところです。

蔵屋:本当にキュレーターの本質に関わることだと受け止めています。私は、今回の《M式「海の幸」》の背景に使われた古賀春江の《海》(1929)や藤田嗣治の《アッツ島玉砕》(1943)を所蔵する東京国立近代美術館で、長い間コレクションを並べて歴史を再編する作業を続けてきました。だから、森村さんと共通する課題を私も担っていると思っています。

ただ、キュレーターというのは歴史家なので、アーティストのアプローチとは異なる部分が大きいです。森村さんが《海の幸》研究でやられたような、魚を刺す銛は何本あってどこがどういう風につながっているのかとか、この人の足はどこに置かれているのかとか、そういう所から解きほぐしていくのは、やはりアーティストならではの作業と感じます。アーティストとキュレーターが補い合って、「親戚の歴史」を掘り起こしていく作業を続けていければ、本当に良いなと思います。

会場風景 撮影:木奥惠三

森村:《海の幸》をやってみて、「本当に親戚やなあ」と思ったことがあります。僕はこの絵にすり替わるわけだけど、最初は絶対に無理やと思ったんですよ。座高と足の長さの比率とか全然違うし、青木は写実ではなく想像力で描く人だから、絶対にデフォルメしてると確信していた。ところが実際にやってみるとものすごく重なるんですよ。プロポーションの違いはあっても、座高とかお腹の量感とか、画像処理することなくそのまま行けた。ロダンの彫像やミケランジェロの絵だったらこうはならへんやろうなと思うんですけど、親戚や、同じDNAや、と驚きましたね。

それは現場感覚としてもつながる。青木が絵を描いてたアトリエと、自分が写真撮影の作業をしている大阪の鶴橋の現場が、100年以上の時間を超えて、感覚的に重なる感じ。これは現場の醍醐味であり大発見でした。

蔵屋:身体を重ねることでわかる、って、とてもエロティックですね(笑)。そういえば森村さんは、《ワタシガタリの神話》のなかでも《海の幸》の持つエロティシズムに言及されていました。尖った銛でやわらかいサメを突き刺すって、「あれはなんか、見ようによっては、だいぶんやらしいよ」と。じつは私もずっといやらしいと思ってました(笑)。

森村:そうなんです。言わないだけで思ってる人は多いんじゃないでしょうか。

蔵屋:先ほど森村さんは、個人の意思を超えて何者かに召し上げられて作品が「神話」になる、ということと、神話を主題に絵を描く、ということはまったく違うことなのだ、というとても重要な指摘をされました。神話をテーマに描いたからと言って「神話」になれるわけではないんだよ、と。その意味では、古事記に題材を採った青木の《わだつみのいろこの宮》(1907)や《大穴牟知命(おおなむちのみこと)》(1905)は、「神話」になれなかった「神話を主題にした絵」なのかも知れません。でも、そこには隠されたエロティシズムの問題が潜んでいて、実はそこから「神話」への道が開けていたかも知れないとわたしは思います。

たとえば《わだつみのいろこの宮》では、樹木でうまく隠されていますが、2人の女性の目線の先にあるのは、なんとすっぱだかの山幸彦の股間です。また《大穴牟知命》では、右側のキサガイヒメが、左手で自分のお乳をしぼって塗り付け、死んだオオナムチノミコトを蘇生させようとしています。それだけでも「だいぶんやらしい」ですが、その右手はよく見ると、オオナムチノミコトの股間を握っているんですよ!神話とはいわば生命の生成の物語です。そこには性の要素が不可欠です。この生々しい性への意識は、たとえば黒田清輝にはなかったものですよね。

森村:そうですねえ、黒田はなんとなくつるっとしている。

蔵屋:20歳そこそこで、後に妻となる福田たねと自由恋愛をしているのも、当時としてはすごいことです。もう性への意識で燃え盛ってしまっても無理はない(笑)。

森村:青木と同郷のライバルだった坂本繁二郎は、福田たねのことを好きだったと僕は思うんですよ。同時に、坂本は青木にも憧れていたのだと思う。

蔵屋:ええっ、そうですか。まるで夏目漱石の『こゝろ』ですね。ふたりの男性がひとりの女性を取り合っている。でも、深い愛憎を通じて本当に惹かれあっているのは、実はふたりの男性同士である。

森村:『こゝろ』までいく(笑)。でもたしかに、漱石に通じるメンタリティが、あの時代の画家たちにはありました。

左から森村泰昌、蔵屋美香  撮影:吉次史成

森村泰昌(もりむら・やすまさ)
1951年、大阪市生まれ。1985年、ゴッホに扮したセルフポートレイト写真でデビューして以降、国内外で作品を発表する。2014年、ヨコハマトリエンナーレのアーティスティックディレクターを務める。近年の個展に、「森村泰昌:自画像の美術史―「私」と「わたし」が出会うとき」(国立国際美術館、2016)、「森村泰昌:エゴオブスクラ東京2020―さまよえるニッポンの私」(原美術館、2020)、「ほんきであそぶとせかいはかわる」(富山県美術館、2020)等。2018年、大阪北加賀屋に「モリムラ@ミュージアム」を開館。著書は、『自画像のゆくえ』(光文社新書)ほか多数。

蔵屋美香(くらや・みか)
千葉県生まれ。千葉大学大学院修了。東京国立近代美術館企画課長を経て、2020年より横浜美術館館長。主な展覧会(共同キュレーションを含む)に「ヴィデオを待ちながら―映像、60年代から今日へ」(東京国立近代美術館、2009)、「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」(同、第24回倫雅美術奨励賞、2011-12)、「高松次郎ミステリーズ」(同、2014-15)、「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(同、2015)、「没後40年 熊谷守一:生きるよろこび」(同、2017-18)、「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」(同、2019-2020)など。第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館の田中功起個展「abstract speaking: sharing uncertainty and other collective acts」(2013)で特別表彰。主な著作に『もっと知りたい 岸田劉生』(東京美術、2019)ほか。

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