「もっとAIに危ぶまれたい」。異色のアーティスト・岸裕真が人工知能に委ねたフランケンシュタイン的現在とは?

渋谷・DIESEL ART GALLERYで6月1日まで開催中の岸裕真の個展「The Frankenstein Papers」。同展は、メアリー・シェリーのゴシック小説『フランケンシュタイン』の内容を自作のAIに機械学習させ、展覧会のキュレーションすべてを委ねるという大胆な展覧会だ。東京大学大学院で人工知能を研究し、現在はアーティストとして活動する岸にインタビューした。

岸裕真 撮影:編集部

人工知能が「キュレーション」する

薄暗い会場の中空には、ギリシャ神殿にある巨大な円柱のような立体が浮遊しているかのように吊るされ、その下には手術台のような、あるいはダイニングテーブルのような立体が置かれている。周囲の壁面を見渡すと、レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》や《モナリザ》を溶解させたような平面作品があり、さらにその上には次々とモーフィングしていく女性の唇の映像が上映されていて、それらは我々をずっと監視し、何らかの強制的なメッセージを伝えているかのようである。

会場風景 Photo: Yunosuke Nakayama

ついつい「〜ように」「〜ような」といった直喩の表現を乱用してしまうのは、その会場に並んでいるもの=作品が、どれも事実や現実の「確かさ」から外れたところにある、いびつな表象という印象を抱かせたからだ。「ような」という言葉で不確定性を際立たせなければ、現実感というものから浮遊した、ダークな世界を捉え損ねるのではないか? 岸裕真の個展「The Frankenstein Papers」には、そんな奇妙な感触がある。

岸 今回の展示は、キュレーションを人間ではない人工知能にゆだねてみようというアイデアから始まりました。2019年に作家活動を始めて以来、平面作品や彫刻をAIとコラボレーションしながら作っていく作品を発表してきましたが、今回は自然言語処理モデルを用いて、さらにもう一歩深みに足を踏み入れたいと思っていました。人と人工知能との関係のなかで、「自分」という主観的な存在をもっと危ぶませたいと考えたんです。

AIと人間の対等な共創ではなく、キュレーターであるAIの指示で、人間が労働者として作品を作るという奇妙な労使関係が、この個展のアイデンティティの確かさを揺るがしているのかもしれない。

岸裕真は、慶應義塾大学理工学部と東京大学大学院工学系研究科で画像生成AIを研究し、現在は東京藝術大学先端芸術表現科の鈴木理策ゼミに在籍するアーティストだ。この数年で発表した作品を見ていると、女性の姿が花に変形していく映像作品など、固有の美しさがありつつも、私たちが例えば人間性と呼んで大切にしている何かが、単なる「もの」へと還元され、貶められていく感覚が沸き起こる。

AIに『フランケンシュタイン』を学習させ、読み解く

岸 学習済みのAIに独自の内容を学習させる「ファインチューニング」という技術があるのですが、その方法で僕が作ったAIが、個展のキュレーションを担当している「Mary GPT(以下、メアリー)」です。19世紀の英国で、当時18歳だったメアリー・シェリーが自分の身分を隠して書いた小説が『フランケンシュタイン』ですが、そのテキストをAIに学習させ、「2023年の渋谷でフランケンシュタインをテーマにした展覧会をするので、そのコンセプト文を書いてください」とオーダーしました。そこで提示されたいくつかのテキストから選ばれたものが展覧会のコンセプト文と指示書になり、僕はそれを読み解いて、例えば《最後の晩餐》の模写を壁にかけ、空間の真ん中に円柱を浮かせたりしています。

The Riddle of the Sphinx, Unriddling the Puzzles #2 撮影:編集部

メアリーが書いたコンセプトの一部を抜粋してみる。

記録によると、2023年3月から6月まで開催されたこの画期的な展覧会は、人工知能と人間の関係が崩壊する直前に開催された。「フランケンシュタイン」を重要なモチーフのひとつに選んだ展示のタイトルは「The Frankenstein Papers」。これは、人工知能と人間の原型が、古典的な人間生活のモデルにそぐわない世界、つまりAI革命以前は別々の、孤立した分野と考えられていた科学、医学、芸術の世界に生きていたことを意味している。(中略)このAI革命の瞬間を捉えたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品「最後の晩餐」である。この作品は、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画を模写したものだが、従来の名画に付随する要素は一切存在しない。それは、AIによって制作された、意味や物語性のない、人間のような抽象的なフォルムのコンポジションである。

開催のはるか以前に書かれたものであるにもかかわらず、メアリーがいつかの未来から展覧会を論じる書き出しが既にユニークだ。「表現」と我々が呼ぶものは、それに先立ってまず作者としての人間があり、インスピレーションや創造性といった不可視の場所を起点にして、加算・乗算的に生成されていく時間の営みとして把握される。だが、メアリー(とその創造主としての岸)が示しているのは、それとは逆の、あるいは様々な方向に向けて分裂していく時間の流れの可能性である。人間とAIが手を取り合うと、時間の把握まで湾曲したり、曖昧になるということなのか?

岸 ChatGPT、Midjourney、Stable Diffusionなど、人工知能モデルが世間を賑わしていますが、いっぽう美術界で「AIアート」が流行っている現状が10年後にどうなっているのかな、とよく考えます。10年後には「AIアートなんて昔あったね」という風に陳腐化してるかもしれないし、もしかしたらスーパーインテリジェンスが達成されて、僕たち人間はAIに支配されてるかも知れない(笑)。シンギュラリティの来そうで来ない、人工知能がある種の「不気味さ」っていうものを喚起する感覚は、たぶん今だけのものになるはず。そういった現在のテクノロジーの不気味さってものを展覧会でプレゼンテーションする際の入り口として、「フランケンシュタイン」のモチーフを選んだ気がしています。でも実際には、もっと直感的に選んだだけなんですけどね。

会場風景 Photo: Yunosuke Nakayama

1818年に発表された『フランケンシュタイン』は、狂気と野心に取り憑かれたフランケンシュタイン博士が、「理想の人間」を作るために人間の死体から醜い怪物を創造する物語として知られる。近代化の時代の渦中に一人の女性によって書かれた物語は、情報技術によって世界の事象すべてをデータ化するべしと考えたGoogleや、人間関係のすべてネット上に移し替えようとしたFacebook(現在はMeta社)の現在を想起させるだろう。GAFAなどと呼ばれる巨大情報産業は、大衆の欲望を糧にして自らの野心を半ば達成したとも言える。だが我々が日々その痛みを痛感しているように、Twitterでは炎上が止むことなく、InstagramやTikTokでは承認欲求と自己肯定の渇望がブーストし続け、それらの情動は個人の精神をしばしば傷つけ、散り散りにさせる。

そのような社会と人間のフランケンシュタイン化現象がもたらす不気味さや私たちの不安は、2020年前半を象徴する時代精神にふさわしいと筆者は思う。

The Lost Language of Mimir 撮影:編集部

「アーティストにはならないで」と言われていた家庭

岸はなぜAIに興味を持ち、それを作品に用いるようになったのだろうか? 彼の生い立ちとその後の経歴は少し興味深い。

岸 慶應東京大学で画像生成AIの研究を2013年ぐらいからやってきたのですが、じつは父親が画家で、アートは生活の近いところにあったんです。ただ母親からは「アーティストにはならないでほしい」ときつく言われていて、デッサンや絵の技術を身につける機会はほとんどありませんでした。

たまたま2018年に東京国立博物館で開催された「マルセル・デュシャンと日本美術」という展覧会に足を運んで、デュシャンの「大ガラス」の複製を見たんです。同作はキュビスムや印象派などを経由してレディメイドの概念に至ったデュシャンが、テクノロジーやサイエンスに興味を持っていたことを示していますが、現代美術は絵を描く必要がなく、しかも今後さらにテクノロジーとの関わりが強くなっていく可能性がある。自分の持つ技術はプログラミングだけど、それを使って作品を作ることができるかもしれないことは大きな衝撃でした。

ほぼ同時期にNY・クリスティーズのオークションでAIが描いた絵画が約43万ドル(当時は約4900万円)で落札されたのも事件だったと岸は言う。同作に用いられたプログラムを自分が研究していたこと、高額で落札されつつも作品の美的価値としては低評価であったことも、「自分も何かしなければならない」という気持ちにさせた。

岸 と言っても、新しく物珍しい技法に寄りかかっただけの表現でいいとは思いません。カメラが発明された初期の頃、写真技術とその表現が絵画の代替物のように捉えられた時代がありましたが、自分が取り組みたいのはその先なんです。人工知能がユニークなイメージを瞬時に生成するのは新しいし面白いですが、美術というのは過去のヒストリーや、それが現在においてどう表現され、そして後世に続いていくかという探求だと思います。その営為のなかで、もうちょっと人間ができることがあるのではないか……という問いのなかで人工知能技術を作品に使っています。

会場風景 Photo: Yunosuke Nakayama

AIは512次元から猫を「解釈」する

近年のAI表象の大きな進展は、2012年にGoogleがYouTubeの動画から自動で猫を認知・発見するプログラムを書いたところから始まっている。AIに学習の傾向や内容を指示する「特徴設計」の作業を人間が手放した後、いわゆる「シンギュラリティ」の転換、AIが人間の認知能力を超える可能性が議論されているのが第三次AIブームと呼ばれる今日の状況だ。

視覚表象にかかわるAIが精緻な図像を自動生成し、ChatGPTに話しかければ簡易なプログラミングまで書けてしまう現在、岸はAIにどんな未来を見ているのだろう。

岸 あくまで作品に関わる妄想なんですが……僕は、単一のユニバースではなく、複数の宇宙があるという世界観を論じた「マルチバース理論」が好きなんです。

その興味から量子物理学の本を読んだりすると、宇宙がビッグバンで生まれた際のエネルギーと、いま僕たちが存在しているこの次元のエネルギーではぜんぜん釣り合いが取れていないそうです。13次元とか14次元とか、いろんな概念がそこに関わってくるのですが、ざっくり言うと、ビッグバンのエネルギーの総体に対して、この世界のエネルギーは小さいと。ここから推察されるのが、僕たちのいる次元のほかに、もっと別の次元が存在してるかもしれない……というのがマルチバースの理論です。

とても夢のある話ですが、自分が研究している人工知能にもそれはあてはまっていて、例えば人工知能が猫を解釈する際の計算上の次元は、100次元から512次元だと言われています。つまり人間よりも高次な空間でAIはモチーフを解釈している。それを逆行的に考えると、AIは高次元に存在する視覚装置をたまたまシミュレーションしているのかもしれない。

クリストファー・ノーランが監督した『インターステラー』(2014年)は、宇宙飛行士のクーパーが5次元空間から娘のマーフに向けて、巨大な宇宙船を浮かび上がらせるための重力方程式のデータを教えてくれるという映画でしたが、それに近い感覚を抱いてAIに接して制作をしているところがあります。

地球が生まれ、人類が生まれ、歴史が紡がれてきた。その中でいつの間にか棄却してしまったもの、もしくは人類だけで思いつかなかった何らかの可能性を示唆するもの。そういう導きにAIはなるのかもしれませんね。

岸の作品制作は「AIとの旅」と言い換えられるかもしれない。この先にある未知の場所へと、AIの導きを頼りにして作家は向かう先を選び、歩んでいこうとしている。

映像作品の制作において、岸は映像の全編を見ることなく完成を判断するのだという。6分ほどの尺であれば、最初の10秒くらいの印象で十分だそうだ。ある程度伝わるものであったなら、そこから先は「自分の判断を入れたくない」と岸は言った。

岸 やっぱり作品を「開かれているもの」にする必要があると思うんです。不確定の要素がどこかにないと、高次元な存在や未知の何かはやって来ないので(笑)。もしかしたら、それが現在の行き詰まっている時代感に対する、僕が考えられる対処法、技術の対処法なのかもしれません。

4月29日(土)から始まる後期展では、一部作品を入れ替え、新たな作品が公開。
またDIESELとコラボレーションした商品も発売予定。

■展覧会概要
タイトル:The Frankenstein Papers
アーティスト:岸裕真
デザイナー:八木幣二郎
キュレーター:自然言語処理モデル Mary GPT
コ・キュレーター:水野幸司
会期: [前期] 2023年3月4日(土) 〜 4月28日(金)
    [後期] 2023年4月29日(土) 〜 6月1日(木)
会場:DIESEL ART GALLERY(DIESEL SHIBUYA内)
住所:東京都渋谷区渋谷1-23-16 cocoti B1F
電話番号:03-6427-5955
開館時間:11:30 〜 20:00
休館日:不定休
ウェブサイト:https://www.diesel.co.jp/ja/art-gallery/yuma_kishi/

島貫泰介

島貫泰介

美術ライター/編集者。1980年神奈川生まれ。京都・別府在住。『美術手帖』『CINRA.NET』などで執筆・編集・企画を行う。2020年夏にはコロナ禍以降の京都・関西のアート&カルチャーシーンを概観するウェブメディア『ソーシャルディスタンスアートマガジン かもべり』をスタートした。19年には捩子ぴじん(ダンサー)、三枝愛(美術家)とコレクティブリサーチグループを結成。21年よりチーム名を「禹歩(u-ho)」に変え、展示、上演、エディトリアルなど、多様なかたちでのリサーチとアウトプットを継続している。