parcelでは、パリ、東京を拠点に活動するカイ・ヨダ(Kai Yoda)の個展「The little blue frog」を開催します。約10年にわたりヴァージル・イッタとのアーティスト・デュオ「Ittah Yoda」として国際的に作品を発表してきたヨダは、2024年以降、個人としての実践を本格的に展開しています。2026年夏にパリのBremond Capelaで開催されたフランス初個展「The Animal We Carry」に続き、本展は個人名義としては日本で初めての個展となります。
ヨダの関心は、親密さや欲望、そして私たちが言葉を与えるより前に抱えている動物的な本能といった、内側に埋もれた領域に向けられています。彼の絵画において、それらは記憶を形づくり、現実と想像の双方の地形を私たちが渡っていくための根源的な力としてあらわれます。刺すように鮮烈な色面を背景に、人とも動物ともつかないキメラ的な存在が立ちあらわれる画面は、見る者の記憶のどこかに触れながらも、ひとつの意味に定まることがありません。その制作は、異なる方法でイメージを生み出しながら、そのあいだを行き来することで成り立っています。手描きのスケッチや日常の写真、美術史的な参照を複数のAIモデルに与え、無数の視覚的なヴァリエーションを生成。そのなかから特定のフレームを選び取り、リネンに油彩で描き起こしていく。人の手とアルゴリズムによる変容が対話を重ねるこのプロセスは、滑らかなデジタルの美学へと向かうものではありません。ヨダが自ら採取した顔料や埃、兎膠といった素材を画面に取り込みながら、掬い上げようとするのは、偶然や脆さ、不完全さ、そして物質そのものの痕跡です。ここでAIは完成像へ導くための道具ではなく、予期しない色彩や形態、連想を呼び込み、完璧さではなく不確かさを受け入れるための対話の相手として位置づけられています。
本展の中心となるのは、2025年5月より制作されている絵画シリーズ「Volo」です。ギリシャのパクソス島、フランスのキブロン、インドネシアのデポックでのアーティスト・イン・レジデンスにおける個人的で親密な経験に根ざしたこのシリーズでは、絵画的な身振り、AI、夢、そして複数の土地と時間をひとつの画面に重ね合わせる可能性が探られています。シリーズにはまた、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が深く影を落としています。一族の名が世代を越えて繰り返され、同じ運命が循環するこの小説のように、「レメディオス」「アマランタ」「ウルスラ」「ピラル」といった登場人物の名を冠した作品群は、特定の人物の肖像ではなく、心的・身体的・情動的な「存在」として画面に呼び出されます。避けがたく反復される歴史、過去に支配され続ける人々、曖昧に溶け合うアイデンティティ——小説が描く時間の複雑さが、ここでは絵画の時間へと置き換えられています。
パリでの初個展を経て生まれた本シリーズは、表現の幅をより伸びやかに広げ、さらなる自由さと実験性に満ちています。画面には手を使って描かれた立体的なワックスの層やテクスチャーが豊かに加わり、描画の力強さを増しています。作家本人の身の回りの人々や花、動物といった個人的なモチーフや、空間を漂う海洋生物のような存在とその浮遊感は変わらず存在しながらも、そこに各地でのレジデンスで目にした街や人々、個人的な体験の断片や摩擦、そして集合的記憶が多層的に刻み込まれます。本展ではそれらを混ぜ合わせることで生まれたシーンに視覚の枠を超え、身体感覚を通して没入する新たなアプローチを試みているのです。
ヨダはかつて、特定の何かには見えず、それでいて「全く何にも見えないわけでもない」——そのバランスこそが重要だと語っています。見慣れたものと見知らぬもののあいだで揺れ続けるその感覚は、現在の絵画にも確かに受け継がれています。また、作品を「自分ひとりのもの」とする考え方に違和感を抱き、意図的に他者のアイデアを制作に招き入れてきたヨダは、個人の実践においても、料理人、サウンド・アーティスト、調香師、レザー作家など多様な協働者とともに、鑑賞体験を視覚の外側——触覚や嗅覚、身体の記憶——へと押し広げています。環境情報学、写真、映像を学んだヨダにとって、イメージとは目に見えないエネルギーを宿し、繰り返し立ち返るための場所でもあります。自然と人工、構築されたものと本能的なもの、生きているものとつくられたもの。ヨダはエコロジーを描かれるべき主題としてではなく、相互依存を考えるための方法として捉え、それらが共存するひとつの環境を立ち上げます。人間と動物、まなざしと感覚の境界がほどけはじめる、その繊細な接触の領域へ。本展は、日本の観客がヨダの個人としての絵画実践にまとまったかたちで触れる、はじめての機会となります。
まだコメントはありません