美術展の展示物のキャプションに「個人蔵」と書かれている。それによって美術館ではない場所で所蔵されていることがわかる。バラバラになった作品が、1つの美術展によってまた集まっている状態はさながら方方に散っていったドラゴンボールが再集結しているみたいだ。美術品を手に入れるにはハードルの高さを感じる。欲しいと思っても、その作者が著名であればあるほど金額は高額であり、ツテがなければ購入すらできない場合もある。
また、手に入れたとしてもその作品の価値ゆえに保管の難しさの問題が発生してしまう。そうやって美術作品は価値が適切に保証されるべきだと、作家も、作品の所有者も考えるだろう。小沢剛は著名な美術作家の1人であり、作品にも保証された価値がついている。だが彼は美術作家でもあるが、東京藝術大学の教授でもある。それによって美術作家の側面だけでは出会えなかった学生たちと交流することになる。教授と学生、その距離感は近い。教えることもあれば、本音で話したり、ちょっと意地悪したり、ご飯おごったことをありがたがらせたり... 作品を通してだけではなく、本人同士の人間性が見える距離感だ。そんなコミュニケーションの中で、ひょんなことから作品を手に入れる機会が発生する。小沢研究室の学生が卒業する際、小沢はお祝いとして作品を渡してくれる。それは毎年変化するもので、ナスビ画廊の牛乳箱やリトグラフなど様々である。研究室の学生をまっとうすることで得られるご褒美だ。
一方、小沢の作ったものやドローイングではあるが、コンセプトもなく作品としては成立していないものがある。余計なひと言かかれた封筒や、学生の誕生日にざっくばらんに描いたケーキのドローイングなど、世に出てくることはないが学生との距離感によって生み出されたものたちだ。いずれも、学生が個人で所有することでその作品がパブリックな場面に出てくることはほぼなくなる。いわゆる死蔵の状態だ。今回の展示「個人蔵小沢展」はそうした死蔵の作品たちを個人蔵作品として展示する。個人と公的、作品と非作品、美術家小沢剛と小沢先生... 単純な2項対立ではなく、その間にあった美術の外側の人間的なやりとりも見えてくるだろう。
まだコメントはありません