これからの10年間、何をしていきますか?:富士フイルム写真救済プロジェクトに5つの質問

震災を起点としたこの10年間に、人々は何を考えどのように行動してきたのか? アーティストや関係者にインタビュー。第4回は富士フイルムの写真救済プロジェクト

In 特集記事 by Art Beat News 2021-03-12

2021年3月11日、東日本大震災の発生から10年を迎えた。震災を起点としたこの10年間に、人々は何を考えどのように行動してきたのか? アーティストや関係者にインタビューを行い、忘れ得ない出来事、人間が学ぶ教訓としての震災を振り返るとともに、今後を展望する。

第4回は「富士フイルム写真救済プロジェクト」。震災で泥まみれになった写真プリントを救済するため、富士フイルムは震災直後の2011年4月より被災地をまわり、写真プリント救済のノウハウ提供やポケットアルバムの提供など、様々な活動を行ってきた。「写真救済プロジェクト」の主要メンバーのひとりである、富士フイルム社員の吉村英紀に話を聞いた。 

1:東日本大震災が起きたその瞬間、吉村さんは何をしていましたか?

会社にいました。西麻布にある富士フイルムのビルにいましたが、かなり揺れて「これはやばい」と思ったので机の下に潜り込みました。「とうとう来る時が来たな」と思いました。

会社で仕事をしている状況ではないと思ったので、16時には仕事を切り上げて最寄り駅の地下鉄の表参道駅に行ったら電車が止まっていて、再開待つ人の列が地下から路上まで溢れていました。とりあえず歩けるところまで歩こうと表参道から国道246に沿って歩いて市ヶ尾(横浜市青葉区)まで歩きました。そこからバスで青葉台へ。青葉台からタクシーを拾おうと思いましたが長蛇の列で困っていたら町田に向かう自家用車の方が声をかけてくれたので、それに便乗させてもらって町田へ。そこから相模大野まで歩いて夜の11時半に家に着きました。

2:東日本大震災は吉村さんの何かを変えましたか?

ものの見方が変わった気がします。例えばメディアの見方。ネットやSNSで流れている情報がずいぶん後になって新聞やテレビに取り上げられたり、当然報道されてもいい情報がなかなか報道されなかったり。メディアの情報をうのみにしないで、自分から情報を取りに行く、出来るだけ自分の目、耳で確認するようになった気がします。

私がはじめて被災地は入ったのは4月9日でした。報道では「ガソリンがない」「食べるものがない」「物見遊山で来る人がいるから被災地が渋滞して困っている」というようなことが言われていたので躊躇しましたが、現地の人に電話したら「ガソリンは大丈夫です」と言うし、行ってみないことにはわからないから、職場の先輩と3名でプリウスをレンタルして食料品を詰め込んで気仙沼に向かいました。

最初に衝撃を受けたのは、気仙沼の隣の登米市では、普通にファミレスで海鮮丼が食べられたこと。東北全体が津波の被害を受けて爪に灯をともしているようなイメージをもっていたからです。そこから30分ほどで被災した現場に入りましたが、爆弾が落ちたような状態で渋滞どころか人っ子一人いない。避難所のリーダーの方が「同じ気仙沼市内でも津波を受けてない人が津波を受けた人に普通に請求書を送ってくる」と嘆いていらっしゃいましたが、津波が来たところは全部持っていかれたし、津波が来なかったところは全部残っている。それが津波なんだということを現場に行ってみて初めて実感しました。

3:東日本大震災に対して、どのような仕事や行動で向き合ってきましたか?

瓦礫の中から拾い出された写真やアルバムを自衛隊の方々が拾ってきてくださって、それをボランティアのみなさんがきれいにする動きが始まろうとしていました。富士フイルムでも写真救済プロジェクトを立ち上げて、ボランティアの方々を技術面・物資面で支援する活動を4月下旬よりスタートし、被災地に入って、写真が集まる場所を探して、そこで活動するボランティアを支援しました。4月9日に初めて被災地に入ったとき、避難所のリーダーの方から「津波ですべて流されてしまった。あるのは記憶だけ。それも時間とともになくなっていく。写真やアルバムが今まで生きてきた証となり、これから生きていく支えになる」と言われて、この活動をちゃんとやらなければと思いました。翌日訪問した南三陸ではすでに写真洗浄がスタートしていましたが、ほとんどがお店でプリントした銀塩写真で「これは富士フイルムがやるしかない」と思いました。

被災写真の損傷が激しくなってきた6月からは社内外のボランティアを募集して写真洗浄をやる活動をスタート。年末には各地のボランティア同士をつないで情報交換する会議(サミット)を開催したりもしました。ボランティアの方々、被災者の方々が写真に真摯に向き合う姿を見て、逆に写真の大切さを教えられた気がします。

4:震災を語り継ぐことについてどう思いますか?

「忘れる」ということは、「なかったことになってしまう」ということ。なかったことにはできない出来事だと思います。なかったことにならないよう、「記録に残す」「語り継ぐ」ことが必要で、そうすることで人類は進歩するのだと思います。

5:これからの10年間、何をしていきますか?または、10年後何をしていると思いますか?

震災の現場で、人々が写真を大切に思っているシーンに遭遇する一方で、集まった写真を見てデジカメ時代の写真がかたちとして残っていないことも感じました。気軽にたくさん写真を撮れるがゆえに、大量過ぎて整理やチョイスが出来なくなってしまい、パソコンやスマホに入ったまま目に触れない存在になっていく。パソコンやスマホの中で眠ったままになっている写真は、結局のところ「ないに等しい」。写真はかたちになるから、長く深く思いが伝わるのだと思います。だから10年後は、画像をいろいろなかたちにして楽しみながら、写真を贈ったり、飾ったり、残したりすることがあたりまえの世の中にしていきたいです。

また、震災以降も毎年のように水害等が発生し、被災写真が生まれています。「写真が被災してもあきらめない」「写真が被災したらきれいにする」をふつうにしていけたらと思います。

吉村英紀 
1964年愛媛県生まれ。1988年富士写真フイルム株式会社(現・富士フイルム株式会社)入社。入社後しばらくは産業材料(感熱紙)の営業を担当。35歳で写真関連部門に異動し、以降、FDiサービス、フィルム、写ルンです、フィルムカメラ(NATURA)、 インスタントカメラ(チェキ)、ネットプリントサービス等の国内マーケティングを担当。震災直後は富士フイルム写真救済プロジェクトのメンバーとして写真救済ボランティアの支援活動を行なった。現在は富士フイルムイメージングシステムズ株式会社でプリント国内市場の需要創造施策を担当。原宿にある富士フイルム直営写真店「WONDER PHOTO SHOP」を運営。

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