公開日:2024年4月16日

キャンセル・カルチャーに隠された「ドクメンタ15」をいま掘りおこす──ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川「カッセル・ドクメンタ・トーク」レポート

2022年6月〜9月に開催された「ドクメンタ15」の報告と考察を行うトークをレポート。パネリストは、インディペンデント・キュレーターの大坂紘一郎と金澤韻、アーティストでありKIKA gallery(京都)のプログラム・マネージャーでもある石井潤一郎の3名。モデレーターは、ゲーテ・インスティトゥート大阪・京都/ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川の館長であるエンツィオ・ヴェッツェル。

トークの様子

2023年9月2日、京都のゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川で「ドクメンタ15」を振り返るトークイベントが開催された。

パネリストは、インディペンデント・キュレーターとして活動している大坂紘一郎金澤韻、アーティストでありKIKA gallery(京都)のプログラム・マネージャーでもある石井潤一郎の3名。モデレーターは、ゲーテ・インスティトゥート大阪・京都/ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川の館長であるエンツィオ・ヴェッツェルが務めた。

キャンセルカルチャーに隠された「ドクメンタ15」を掘りおこす

このトークの趣旨は、昨年2022年6月〜9月に開催された「ドクメンタ15」の報告と考察を行うことであった。

「ドクメンタ」はドイツのカッセル市で5年に1度開催される芸術祭である。その影響力は大きく、開催されるたびに注目が集まる、いわば現代アートの祭典のトップだ。15回目を迎えた今年は、アジア系として、そしてコレクティヴとしては初となる、インドネシア・ジャカルタを拠点とするコレクティヴ「ルアンルパ」がアーティスティック・ディレクターを務めた。

当初はルアンルパが打ち出す「アートではなく友だちを作ろう(MAKE FRIENDS NOT ART)」という画期的なテーマと、「コモンズとシェア」という、加速する資本主義に抗うコンセプトに注目が集まった。しかしその後、ドクメンタ15が「反ユダヤ主義的」だとして、芸術祭へのキャンセル・カルチャーが、とくにドイツ国内を中心に巻き起こったのだった(*1)。

だがあくまでこのトークのねらいは、こういったスキャンダラスな話題に隠れてしまった、ドクメンタ15の当初の目的である「コモンズとシェア」や、それがもたらしたアート界への影響を掘りおこし、議論するというものであった。

なお、今回のトークは、登壇者や参加者の自由な発言を確保するためにオンラインでの生配信はなく、対面での開催となった(*2)。本レポートは、多岐にわたった議論の概略をお届けする。

祝祭、コミュニティとアート、ホスピタリティ──3つの視点からドクメンタ15を再考する

ポイントをかいつまみながらトークを振り返ってみよう。

当日は総勢20名ほどがオーディエンスとして参加。各自がコーヒーを片手に同じ円卓を囲むというリラックスした雰囲気のなか、会はスタートした。なお、オーディエンスの国籍が日本、中国、韓国など東アジア諸国を中心に多岐にわたったことから、トークは基本的に英語で行われた(そのうえで、自身の母国語で発言することも可能だとも伝えられた)。

開会のあいさつでは、モデレーターであるヴェッツェルが、「ドクメンタ15から一年(*トーク開催時)が経過したいま、日本あるいは東アジアの視点から、ルアンルパが指揮したこの芸術祭をどのように見るかを考えてほしい」と述べた。また、自分の国籍に依拠して発言するのではなく、「自分自身」がどう思ったかを大事にしてほしいともコメントし、パネリストの発表へと移った。パネリスト3名は昨年ドクメンタ15に赴き、実際に現地で見聞きしたことを踏まえながらそれぞれ発表した。

最初に発表したのはアーティストの石井。「このトークでは”What is Art? (何がアートなのか)”について考えたい」と、プレゼンテーションを始めた。

会場風景より、左からエンツィオ・ヴェッツェル、石井潤一郎

石井は、韓国、トルコ、ウズベキスタン、ジョージアにおける長期の滞在制作の経験がある。そこでの生活の中で石井は、理解できない(ununderstandable)ことに多々遭遇したという。その際、理解した気になったり、理解できないことを理解できないままで終わらせたりするのではなく、他国の人間が何を考えているのかを想像することが肝要である。そのプロセスこそが「アート」なのではないか、と説いた。

その流れで石井は、ある友人のエピソードを紹介した。その友人は大使館で働いている韓国人で、中国政府に呼ばれてパーティーに赴き、中国産のワインを飲んだ。しかし、そのワインは独特な味で、友人はすぐさま「まずい」と感じたという。しかし彼はあとで、ただ自分が西洋のワインに慣れているだけで「まずい」と即座に判断してしまったのではないかと反省した。あとになって、これは中国のなかでもウイグル地域で古くからの製法で作られたワインで、ウイグル料理に非常にマッチしたという。「異文化/他者への拒否感は何に由来するのか」という問題についての象徴的なエピソードであると同時に、私たちが西洋の感覚に無自覚に浸かってしまっていることへの警鐘を鳴らすエピソードでもあるだろう。

ドクメンタ15が私たちにもたらした影響は、このエピソードの教訓ともつながる。グローバルサウスから来た名も知らないアーティストたちの作品が数多く展示されていたが、私たちが無自覚に従っている西洋の基準にならえば、クエスチョンマークを抱くものばかりだった。しかし、無自覚にインストールしている思考の枠組みを私たちに認識させるという点で、自分と異なる世界や社会に住んでいる人々を想像する絶好の機会をドクメンタ15は提供したのではないかと石井は語った。

そこから石井は、シンガポールのキュレーター、デヴィッド・テー(David Teh)の言葉を引用し、今日の東南アジアにおける「アート」は「近代の産物」であり、植民地主義とは切っても切り離せないということと、近代化以前、つまり西洋が「アート」を現地にもたらす前の美術──いわゆる「祝祭(festivity)」としての美術を考える必要があることを説いた。石井は、「現に、20世紀を芸術が商品(コモディティ)となった時代だとしたら、芸術祭の乱立から始まった21世紀は、アートが祝祭(フェスティビティ)になりつつある時代と言えるのではないか」と感じているという。つまり、「祝祭」──「芸術祭」を見るために私たちは世界中を飛び回っている。そこで人々と語らい、また移動する。物質的な作品にではなく、その繰り返しの行為が発するエネルギーにこそ、私たちはアートを見出しているのではないか、と。まさにこのようなエネルギーに満ち溢れたドクメンタ15を通して、あらためて“What is Art? (何がアートなのか)”について考え直せるのではないかとまとめ、発表を終えた。

次に発表したのは、インディペンデント・キュレーターの金澤。金澤は、地域に根ざした芸術実践を紹介する展覧会「ウソから出た、まこと―地域を超えていま生まれ出るアート」 (*3)(十和田現代美術館、2019)を企画するなど、「コミュニティとアート」(*4)というテーマにここ数年取り組んできた。そうした経緯から、金澤は「コミュニティとアート」という側面からドクメンタ15を考察した。

会場風景より、金澤韻

金澤の指摘通り、ドクメンタ15ではコミュニティ形成に根ざした展示や取り組みが多く見られた。いくつか例を挙げよう。まず、ルアンルパの一部のメンバーが2020年からカッセルに移住し地元の住民やコミュニティと交流した。また、メイン会場であるフリデリチアヌム美術館では「フリードスクール(FRIDSKUL)」という子供のためのワークショップスペースや託児所が設けられた。ルアンルパだけでなく、多くの「コレクティヴ」が参加したこともコミュニティ形成というドクメンタ15の特徴に貢献していた。

しかし、ルアンルパが志向した「コミュニティ形成の場としてのドクメンタ」には様々な意見が飛び交った。たとえば金澤は、アート専門誌「The Art Newspaper」のポッドキャスト「The Week in Art」での言説を引用した。そこでは、ドクメンタ15の社会的実践としての芸術のアプローチに関して、「まったく新規性がなかった」、「60年代や70年代を想起させるものがある」と言われていたという。この「The Art Newspaper」を含む「美術界」(=メインストリームの美術史の延長線上にいる人々)は、現代美術キュレーションの頂点とされるドクメンタを、「最新のアート」を見せる場として期待したのだろう。だが、彼らが言うように、新規性がないという事態──60年代、70年代を想起させること──は果たして問題なのだろうか。それが金澤の発表に通底するテーマだ。

このテーマを考えるうえで、金澤は、日本における「コミュニティとアート」批判を取り上げた。その代表格が、評論家の藤田直哉による論考「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」である。金澤が引用した「68年スタイルのアートが日本の田舎に吸い込まれている。血と内臓をにじませ、前衛的なゾンビが田舎の田んぼでバラバラになっている」という藤田の文章は、日本でさかんに行われている「地域芸術祭」や「地域アート」(*5)における、「アートの形骸化」に対する藤田の深い懸念を示している。ここで金澤は、この藤田の文章には、先ほど引用した「The Art Newspaper」のポッドキャスト番組での言説と共通点があると指摘する。つまり、芸術の進歩や変化を期待する考えが根底にあり、それぞれがドクメンタ15ないしは地域芸術祭に、過去のアートスタイルや概念の再現や劣化を見ているという点だ。

そもそも、60年代や70年代のものに見えるアートは古いものなのだろうか。それは劣っているものなのだろうか。金澤はこの問いへの応答として、美学者の星野太が金澤との対談(*6)で発表したダイアグラムを引用した。星野は「コミュニティとアート」の、「ローカル」、「リージョナル」、「サイトスペシフィック」な側面を、近代の美術が目指した「グローバル」、「ユニバーサル」、「ポータブル」といった価値に対比させてみている。加えて、このようなローカルでリージョナルでサイトスペシフィックなアートはともすれば前近代的とみなされるかもしれないが、同時に近代を弁証法的に乗り越えられる可能性も秘めている、と。金澤はそれに賛同しつつ、日本の近代化という歴史のなかで「コミュニティとアート」の重要性を語れるのではないかと述べる。そもそも、日本における近代化とは、自己植民地化──すなわち伝統的なものや地域固有のものを淘汰し、西洋に自らを擬態することであった。自己植民地化の影響を受けた人々がアートを通じて自己のアイデンティティを回復しようとするなかで、「コミュニティとアート」が必要とされてきたのではないか、と。

そこで、「アートは進化するべきだ」という言説への反論に戻る。金澤は、この「アートは進化するべきだ」という言説は、メインストリームの美術史=西洋美術史に基づくもので、地域や文化の多様性を無視する危険性があると主張した。そのいっぽうでドクメンタ15は、複数の近代化、植民地化、脱植民地化の歴史を持つ世界において、異なるリアリティに対処し、それを理解する豊かな感性の重要性を示唆したという点で評価に値すると述べた。また、これを受けて金澤は「美術史は逆流するものである」という示唆に富むセンテンスを残し、次の登壇者にバトンを渡した。

最後に発表したのはインディペンデント・キュレーターの大坂。 金澤がある批評家の言葉として引用した「ドクメンタ15に新規性はない」という意見に賛同しつつ、今日の芸術実践を評価する尺度として「新規性」はそもそも不適切だと述べた。むしろ、加速する資本主義社会の産物として次々と生まれる作品や展覧会を「必要性」という尺度で評価するべきだと主張した。そういった尺度で見れば、ドクメンタ15を「未来の社会を考えるための実験場として評価できる」と述べた。

会場風景より、大坂紘一郎

大坂はドクメンタ15を振り返るうえでの問題を3つ挙げた。

1つ目は、「不完全な美術史(Incomplete Art History)」。これは、グットスクール(GUDSKUL)参加者の言葉である。とくに西洋美術史は「アーティスト個人の芸術実践」を点的に記述する傾向が強いため、非常に不完全であるとも考えられる。しかし、ドクメンタ15は、アーティスト個人の成果ではなく、集団的に生まれた知識の共有による芸術実践やアクティビティの痕跡を見せるものであり、「不完全な美術史」とは対置されるのではないかと指摘した。

2つ目は「インスティテューションなき公共(Public without Institutions)」。インスティテューション(芸術を支える美術館・博物館、あるいは助成制度)は、とくに「ポスト89年」以降では、主体性を持った市民の、民主化と自由を体現する方法としてのアートを支える場として機能していた。しかし、加速する資本主義社会やパンデミックの結果として、世界の富裕層の上位1%の人々がますます富を獲得し、世界には格差が蔓延している。それに伴い、その富裕層の欲望やニーズに応える形でアートワールドが存在するようになってしまい、民主化を遂行するためのアート、そしてインスティテューションは衰退してしまった。

そのような状況のなかで、そもそもインスティテューション=アートインフラを持たない地域における「公共」を考えることは重要だと大坂は説く。ルアンルパが活動しているエリアにも、現代アートを支える整ったインフラがあるわけではない。だがそこにも、公共=パブリックはある。そこでルアンルパが実践したのは、作品を完璧に並べるキュレーションではなく、訪れた人々全員に配慮したホスピタリティであったという。この、「インスティテューションなき」エリアから生まれる、ホスピタリティの実践が、ドクメンタ15では重視されており、そこから学び取ることは多いのではないか、と。

3つ目は「インターローカリティからジオポエティクスへ(Inter-locality → Geopoetics)」。ルアンルパは「インターローカリティ」──「地域間の交流」を標榜していたが、その言葉の限界を大坂は指摘する。政治的連帯を強調し、地域を点と点で結ぶその言葉の代替として大坂は、シンガポール国立美術館のパトリック・D・フローレスの「ジオポエティクス」という概念を紹介する。この概念は、ある地域の問題をほかの地域にも敷衍し、地域を超えたつながりを持つことを意味する。

ここで、各人の発表が終わり、オーディエンスからの質問とディスカッションに移った。発表後のディスカッションから浮かび上がってきた視点は、様々な思想と背景を持つ人がいる中でアートをどのように成立させるかや、グローバルであるということはどういうことなのかという問い、また、グローバルとローカルの関係や、アートの現場を成り立たせている前提についてなどと多岐にわたった。

過去を振り返ること、未来を展望すること

最後にまとめに移ろう。観点に相違はあれど、発表者3人に共通していたテーマは、所与のアートシステムやヘゲモニーにどう対抗していけるかということであった。そのうえで、方々から聞かれる、ドクメンタ15に対する「不可解である」「古い」という言説はなぜ出てくるのかについて、私たちは考える必要があるように思った。私自身も現地でドクメンタ15を見たのだが、実際に難しいと感じたひとりだ。しかし、パビリオンや宿泊先で人々と語らう時間や、今回のトークを通じて、いかに自分がメインストリームに従順だったかを痛感したのであった。

また、このトークはドクメンタ15閉幕の一年後に行われ、パネリストは「振り返るには遅すぎたかもしれない」とも語っていた。だが、それは果たしてどうだろうか。既知のとおり、いま世界は惨憺たる状況を目の当たりにしている。そのなかで私たちは、コモンズとシェアというコンセプトを礎にしたドクメンタ15の実践から改めて学ぶことができるはずだ。加えて、石井の「祝祭のエネルギーがアートである」という言説にのっとれば、祝祭を振り返ることもアートになり得るのではないだろうか。そして、そのことは世界の惨状を前にして無力感に苛まれるアートの一縷の希望となるのではないだろうか。(*7)

*1──なお、ドクメンタ15については以下のTokyo Art Beat内の記事も参照されたい。
「『ドクメンタ15』レポート。本当に「キャンセルされるべき芸術祭」だったのか?」(文:齋木優城、公開日:2022年8月9日)
「ドクメンタ15におけるルアンルパの挑戦:《ルル学校》の実践で生まれたフォーマット」(文:廣田緑、公開日:2022年10月21日)
*2──議論の詳細については、トーク後に公開された録画映像を参照されたい。
*3──この展覧会には、北澤潤、ナデガタ・インスタント・パーティー、藤浩志の三組が参加した。北澤は、インドネシアから持ち込んだ人力車で地元の十和田市民と遊び心溢れる活動をデザインした。アート集団のナデガタ・インスタント・パーティーは、地域住民の自発的な活動を促進することをテーマに活動しており、本展では会場内にヴァーチャル・ミュージアムを構築した。「かえっこバザール」などといった数々のアートプロジェクトを生み出してきた藤は、金澤との共同で小説を発表。藤の関心がチームワークから演劇へ、そして町での活動へと移り変わるさまを描いた。
*4──アーティストが地域住民と協力して作品やプロジェクトを行うことを指す。日本では「地域アート」と称されることが多いが、「地域アート」が含意するものやその名前自体の議論の多さから、このトークで金澤は「コミュニティとアート」と呼ぶことを選択している。
*5──ここでは藤田の原文を参考に「地域アート」と呼称する。なお、金澤は藤田の言う「地域アート」は「地域芸術祭」と「アートプロジェクト」を一括りにしていることを問題視している。
*6──金澤自身も編集に携わった『地域アートはどこにある?』(十和田現代美術館編、堀之内出版、2020)内に収録されている。
*7──今回のトークは、冒頭で説明したように、キャンセル・カルチャーに埋もれてしまったドクメンタ15の当初の目的について議論する場として設定されていた。とはいえ、2022年の開催時から反ユダヤ主義の意味合いが更に変化したいまだからこそ、ドクメンタ15はなぜ反ユダヤ主義的だとして強い批判に晒されたのかについても再考しなければならないのではないか。ひいてはそれが今起きているイスラエル―ガザで起きている深い文化的禍根についても考える機会になるのではないだろうか。

石井潤一郎
いしい・じゅんいちろう 1975年生まれ。美術作家。2004年よりアジアから中東、ヨーロッパの「アートの周縁 / インターローカルな場」を巡りながら20カ国以上で作品を制作・発表。2020年よりICA京都(Institute of Contemporary Arts Kyoto)で、レジデンシーズ・コーディネーターとしてAIRのネットワーク作りを行う一方、KIKA galleryのプログラム・マネージャーと してアーティストの展覧会作りにも関わっている。京都精華大学非常勤講師。

金澤韻
かなざわ・こだま 現代美術キュレーター。 公立美術館勤務後、2013年よりインディペンデント・キュレータ ーとしての活動を開始。メディアアート、漫画、地域とアート、障害とアートなど既存の美 術の枠を超える領域を扱い、時代・社会と共に変容する人々の認識を捉えようとする企画を行なう。国内外で展覧会企画・制作多数。コダマシーン共同代表。現代美術オンラインイベントJP共同主宰。

大坂紘一郎
おおさか・こういちろう インディペンデントキュレーター、ライター。1979年生まれ。批判的思考を促す現代アートのプラットフォームとして2015年にASAKUSAを創設し、現在まで代表を務める。近年の主な展覧会に、ニューヨークの《e-flux》での『機械の中の亡霊(CIAを考える)』(2019)、 香港の現代アートセンター《Para Site》でのレジデンス滞在中に企画した『呪いのマントラ』(2019)など。現在、京都芸術大学准教授。

会場:ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
パネリスト:石井潤一郎、金澤韻、大坂紘一郎
司会:エンツィオ・ヴェッツェル
撮影:SHOEN MEDIA
編集 :梶原瑞生
字幕監修:太田恵以
助成:京都府文化力チャレンジ補助事業、京都市「Arts Aid KYOTO」補助事業
制作:©キカ・ギャラリー 2024
ドクメンタ・トーク ウェブサイト
日本語 https://kikagallery.com/documenta_Talk.html
English https://kikagallery.com/documenta_TalkEN.html

原田美緒

原田美緒

はらだ・みお 金沢21世紀美術館アシスタント・キュレーター。1995年埼玉生まれ東京育ち。東京大学文学部思想文化学科美学芸術学専修卒業後、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科キュレーション専攻修了、平山郁夫文化芸術賞受賞。2022年より現職。自身もパフォーマンス活動に従事していた経験からパフォーミング・アーツに関心を寄せてきた。近年は、社会における所与の条件を問い直す芸術実践について調査・研究を進めている。キュレーションをした展覧会に「PRINT (ed.) VOICES」(東京、2021年)、「(((((,」(東京、2022年)がある。