公開日:2023年6月28日

「ユージーン・スタジオ / 寒川裕人 想像の力 Part 1/3」展レビュー。現代的な、あまりに現代的な(評:菅原伸也)

東京・天王洲のMAKI Galleryで8月5日まで開催中のユージーン・スタジオ / 寒川裕人の個展「ユージーン・スタジオ / 寒川裕人 想像の力 Part 1/3」をレビュー。

会場風景より。写真中央は《Light and shadow inside me(untitled) #30》(2023) 撮影:編集部

天王洲のMAKI Galleryなどで8月5日まで開催中

ユージーン・スタジオは、現代美術家の寒川裕人(1989年アメリカ生まれ)による日本拠点のアーティストスタジオ。絵画作品とインスタレーションをおもに制作し、ロンドンのサーペタイン・ギャラリーへの作品提供や資生堂ギャラリーでの個展(2017)など、国内外で実績を積んできた。平成生まれのアーティストとして初めて東京都現代美術館で開催した個展「ユージーン・スタジオ 新しい海」は、大きな反響を呼んだことも記憶に新しい。

展覧会「ユージーン・スタジオ / 寒川裕人 想像の力 Part1/3」が、8月5日まで東京・天王洲のMAKI Galleryで開催されている。「想像の力」と題した複数年にわたる展覧会の第1章に当たり、今回は複数のコレクターの協力のもと5つの作品シリーズをギャラリーに展示。また、東京近郊にあるユージーン・スタジオのアトリエを予約制で公開しているのも話題だ。美術批評・理論を専門としコンテンポラリー・アートをフィールドに評論活動を行う菅原伸也が、MAKI Galleryの展示をレビューする。【Tokyo Art Beat】

既視感と「新しさ」の所在

ユージーン・スタジオの作品を見ると真っ先に抱くのは、どこかでこんな感じの作品を見たことがあるという既視感である。思いつくままに挙げてみるだけでも、白黒のグラデーションからなる「Light and shadow inside me」シリーズの新作は杉本博司の「海景」や「Opticks」を、点描でキャンバスが埋め尽くされた「Rainbow Painting series」は新印象主義や草間彌生、郭仁植(カク・インシク) などの作品を、暗い部屋のなかで上から金箔と銀箔の粒子が降り注ぐ「Goldrain」シリーズはオラファー・エリアソンの《ビューティー》(1993)などを彷彿とさせる。

もちろん先行作品を想起させること自体は必ずしも悪いことではないだろう。ユージーン・スタジオ以外にもそうした作品は多く存在しているし、たとえ先行作品と似たような見た目や形式を持っていたとしても、それに異なる新たな意義を与えることは可能であるからだ。問題は、先行作品に対して、そして現代という時代においてユージーン・スタジオの作品がどのような更新を遂げているかである。もしユージーン・スタジオの「新しさ」が存在するのならば、果たしてそれはどのようなものであろうか。

会場風景より、《Light and shadow inside me(untitled)#49》(2023) 撮影:編集部

「中身当てゲーム」の作品化

本稿では、本展出品作のなかから《想像 #1 man》と「White Painting series」を中心にして論じることにしたい。暗闇の中で制作され作家自身もその姿を目にしたことがないとされる彫像を、観客がひとりずつ真っ暗闇の空間に入り手で触れて体験する《想像 #1 man》は、作家も観客もその物を見ることができないという点においてマルセル・デュシャンの《秘めた音で》(1917)を、闇を作品に用いているという点において河口龍夫の作品を思い起こさせる。

《秘めた音で》ではデュシャン本人さえ見たことのない物が第三者によって紐の玉のなかに入れられており、それがどのようなものであるのかは、作品全体を手で振ることによって発生する音から想像することができるのみであり、文字通り闇に包まれている。それに対して《想像 #1 man》は、真っ暗な大きな空間にひとりずつ入るという仰々しい仕掛けの割には、実際にその彫像を暗闇のなかで触ってみると、拍子抜けするほど形としては変わったところのない人物像であることが容易にわかり、したがって作家が強調するのとは違って「想像」が大いに掻き立てられることはない。

こうした大げさな仕掛けを取り去ってみるならば、これは、箱のなかに手を差し入れてそこに置かれた物が何かを手で触れることで当てる「箱の中身当てゲーム」に近い。言ってみれば、《想像 #1 man》は、箱が巨大化して人がそのなかに入れるようになった、中身が簡単に分かる「箱の中身当てゲーム」である。したがって、本来の「箱の中身当てゲーム」のほうが、ユージーン・スタジオの巨大化したそれよりも「想像」の余地ははるかに大きいだろうし、《想像 #1 man》の必要以上に大仰な仕掛けは文字通り作品を巨大化することで、象徴的に作品を大きく見せて価値を付加するために用いられている。

会場風景より、《想像 #1 man》(2021)の入口 撮影:編集部

自己演出としてのコンセプチュアル

本展の出品作として展覧会特別サイト(*1)に掲載されているのにもかかわらずなぜか会場では一般には非公開とされ筆者が実際に見ることができなかった「White Painting series」は、同じシリーズ名を持つロバート・ラウシェンバーグの「ホワイト・ペインティング・シリーズ」を真っ先に思い起こさせることになるだろう(*2)。ラウシェンバーグのシリーズは、タイトル通りに真っ白なキャンバスから構成され、作品を通して作家が自己表現するのではなく、ブランクの画面によって周囲の空間における光や影の変化を映し出す試みであり、ジョン・ケージが『4分33秒』(1952) をつくるきっかけのひとつともされる作品である。美術史的に言えば、ロザリンド・クラウスが述べるように、当時芸術的に最盛期を迎えていた抽象表現主義もしくはアクション・ペインティングが私的な感情を直接的に伝えるために用いていた荒々しいタッチに対するラディカルな批判として企図され、その点でウィレム・デ・クーニングのドローイングを消しゴムで消去した、同じラウシェンバーグの《消されたデ・クーニング》(1953)とも共通している(*3)。

いっぽう、ユージーン・スタジオの「White Painting series」も、ラウシェンバーグのものと同様何も描かれていない真っ白なキャンバスからなるが、じつはそれは、街で声を掛けた人々や特定の家族が最大で100名そこに接吻したものだという。作家は観客に、真っ白なキャンバスに人々が接吻したという出来事をここでも「想像」したり、共生や多様性といった漠然としたテーマを読み取ったりして欲しいのだろうが、もしただの空白の画面に対してそうした「想像」や読解を可能にするものがあるとするならば、それは、解説キャプションや記録写真、ハンドアウトといった、作家によって用意されたテクストやイメージの存在のおかげである。したがって、ユージーン・スタジオの作品では、真っ白なキャンバスや暗闇のなかにある彫像それ自体というよりも、それらに意義と価値を付与することを目的とするテクストやイメージこそが主要な役割を果たしている。そして、観客が作品に対して自由に発揮するとされる「想像の力」は、作家によって与えられるそれらの情報によって実際には方向づけられている。

たとえば、ジョゼフ・コスースが《ひとつと3つの椅子》(1965)において椅子に関する辞書の定義と椅子の写真を実際の椅子とともに展示したように、そもそも美術の領域において本格的に言語や写真を用いることを始めたのは、コンセプチュアル・アートであった。それは、モダニズムの美的自律性を言語や写真によって破壊しようとするラディカルな試みとして行われた。それに対して、ユージーン・スタジオの作品ではむしろ、もはや何らかのラディカルな批判を行おうとする意図は消え去っていて、作品に過大な意義と価値を投影することで大仰に飾り立てる自己演出としてそれらの手段が流用されているのである。

会場風景より 撮影:編集部

カフェイン抜きのコーヒーのように

さらに、ラウシェンバーグにとって真っ白なキャンバスが、作家の個性や思考を表現することを否定しむしろ周囲の状況における変化を反映するものであったとするならば、ユージーン・スタジオのそれは、作家である自己への評価を高めるために、作品に対して過度な価値を付与する大げさな言葉が投げかけられる空白の場と化していると言えるだろう。哲学者スラヴォイ・ジジェクの有名なフレーズをもじって表現するならば、それはあたかも、これらの先行作品からラディカルさを抜き取った上で自らを大きく見せるために泡を後から付加した「カフェイン抜きの炭酸コーヒー」のようである。

ユージーン・スタジオが用いる、自らの作品を飾り立てる言葉や大仕掛けといった過剰演出は、建築家アドルフ・ロースが同名のエッセイのなかで取り上げた「ポチョムキンの都市」を思い起こさせる。ポチョムキンの都市とは、寵臣ポチョムキンが、エカテリーナ2世に見せるために、仮設の板壁を建て、そこに虚構の豊かな農村風景を描いてつくった書き割りの村のことである(*4)。煌びやかな虚飾の書き割りの向こう側には何もなく、荒野が広がっているだけであった。ユージーン・スタジオは、批評家デイヴィッド・ギアーズが自らの「White Painting series」を表した言葉「愛と記憶にまつわる移動式の礼拝建築」を好んで引用するが(*5)、その「礼拝建築」はじつは、その向こう側には何も存在しない、ポチョムキンの都市のような書き割りでしかないのではないだろうか。

「White Painting series」に限らずユージーン・スタジオの作品では、どこかで聞いたことがあるがじつは何も言っていない抽象的で空疎な「コンセプト」(たとえば、共生や多様性など)や大げさな仕掛けが、書き割りのような作品を虚しく飾り立てている。もしユージーン・スタジオに「新しさ」があるとするならば、デュシャンやラウシェンバーグ、コンセプチュアル・アートなどの先行作品からラディカルさを抜き取ったうえで、あたかも自分がすごいことを行なっているかのように自らの作品を臆面もなく粉飾することができる能力にあると言えるだろう。自らを飾り立て売り込む言葉やイメージでソーシャルメディアが溢れかえっている今日において、それは「現代的」である。だが、そうして後から注入された炭酸の泡はすぐに弾けて消え去り、ただの冷めたカフェイン抜きコーヒーとなってしまうであろう。

*1──http://vip-mkg-eugenestudio-kangawa-231.makigallery.com/ja/
*2──「White Painting series」は、本展で見ることは拒まれたものの、東京都現代美術館で突如として開催された個展「ユージーン・スタジオ 新しい海」に出品されており筆者も当時見ることができたので、本論では、本展の同シリーズもそのときと同じような作品であると仮定して論じることとする。
ちなみに、長谷川新もユージーン・スタジオに関する論考のなかで、ラウシェンバーグの同名シリーズとの関連をすでに指摘している。
https://the-eugene-studio.com/project03/beyond-good-and-evil-make-way-toward-the-wasteland/#thesis
*3──ロザリンド・クラウス「1953 ケージ、ラウシェンバーグ、「指標」」山本さつき訳、ハル・フォスター他『Art since 1900 : 図鑑1900年以後の芸術』東京書籍、2019年
*4──アドルフ・ロース「ポチョムキンの都市」『装飾と犯罪 建築・文化論集』伊藤哲夫訳、筑摩書房、2021年、p.68.
*5──この言葉は、ユージーン・スタジオのサイトや東京都現代美術館での個展の際に配布されたハンドアウトなどで繰り返し引用されている。しかし、実際にギアーズの論考(の翻訳)を確認してみると、「移動式の愛と記憶にまつわる礼拝建築」となっており、作家による引用ではなぜか微妙に改変されて使用されていることがわかる。
デイヴィッド・ギアーズ「モノクロームのなかの情念」『ユージーン・スタジオ 新しい海』2022年、p.45.
ギアーズの同論考は、ユージーン・スタジオのサイトでも読むことができる。
https://the-eugene-studio.com/project03/series-of-white-painting/

菅原伸也

菅原伸也

すがわら・しんや 美術批評・理論。美術批評・理論。1974年生まれ。コンテンポラリー・アート、そしてアートと政治との関係を主な研究分野としている。主な論考に、「タニア・ブルゲラ、あるいは、拡張された参加型アートの概念について」(ART RESEARCH ONLINE)、「リヒター、イデオロギー、政治––––ゲルハルト・リヒター再読」 (『ユリイカ』2022年6月号)がある。最近の論考には、「現代的な、あまりに現代的な──「ユージーン・スタジオ / 寒川裕人 想像の力 Part 1/3」展レビュー」(Tokyo Art Beat)や「同一化と非同一化の交錯──サンティアゴ・シエラの作品をめぐって」(『パンのパン 04下』号外としてKindleとBOOTHで先行発売中)など。現在、アナ・メンディエタに関する英語の研究書を翻訳することを目指して有志で研究会を行っている。