公開日:2022年12月27日

【連載】イザナギと呼ばれた時代の美術 #3:反戦運動から大阪万博へと至る統治のテクノロジー。密告と監視の“空気”はいかに醸成されたか(文:長谷川新)

インディペンデントキュレーター、長谷川新による連載第3回。本連載は、1960〜70年代の「日本戦後美術」を、これまであまり光が当てられてこなかった「ベトナム戦争」を軸に辿り直すもの。ベトナム戦争を背景にした「イザナギ景気」に日本列島が沸いた時代の、新たな戦後美術史を立ち上げる。(不定期連載)

赤瀬川原平 警察バンザイ 1972 『赤瀬川原平の芸術原論展 1960年代から現在まで』カタログ、千葉市美術館・大分市美術館・広島市現代美術館・読売新聞社・美術館連絡協議会、2014年、p.194

イザナギ景気とは1965〜70年にかけて続いた高度経済成長時代の好景気の通称だが、その要因のひとつがベトナム戦争を背景とした「ベトナム特需」である。本連載は、この時代の「日本現代美術」をベトナム戦争を軸に辿ることで、これまであまり注目されてこなかった同時代の美術のありようを浮かび上がらせることを試みる。

第3回は、前回取り上げた海老原暎(えい)《密告にご協力を!》(1972)から出発し、密告や監視へと市民を向かわせる「空気」がこの時代にいかに醸成されたかをひもとく。こうした空気は芸術家やマンガ家によって鋭くとらえられ、作品に刻まれていた。また後半では、多くの芸術家も参加した大阪万博で押し進められた監視による統治システムと、それを支えた労働者の権利運動について論じる。【Tokyo Art Beat】

*これまでの連載は以下


人々の心の「内なる警察」

海老原暎(1942〜)が福生(ふっさ)の米軍ハウスをとりあげ「密告にご協力を!」と書き込んだ直接の背景は、「三億円事件」(1968年12月)捜査員の執拗な聞き込みであったという(*1)。当時、公安警察や町内会組織による情報提供の呼びかけ、密告の奨励は公然と行われていた。たとえば同年に制作された赤瀬川原平(1937〜2014)の《警察バンザイ》にも、「ヒソヒソ市民ツゲグチ同好会」という書き込みが見られる。

「東京に住む人から見ればタダの田舎にすぎなかった狭山や福生には、しかしオーバーに言えば全く違う文化圏が開けていた。[...]国道16号線といううさん臭い道路が、ジョンソン基地と横田基地、横浜、横須賀を結んでいて、車で往復すれば東京にはない〈アメリカ〉がそこらに転がっているのを発見できた」(*2)

国道16号線。左手に横田基地が見える 撮影:西澤諭志

この基地文化については基地闘争とともに改めて言及する。海老原が米軍ハウスのなかに喚(よ)び込んだのは、そうした文化や闘争ではなく、人々の心の「内なる警察」──閉塞を促す「空気」であった。イザナギと呼ばれた時代の美術を考えるにあたって、今回はこの「空気」の編成について触れておきたい。

海老原暎 密告にご協力を! 1972 出典:http://studio.rev-a.jp/works/detail/1
赤瀬川原平 警察バンザイ 1972 『赤瀬川原平の芸術原論展 1960年代から現在まで』カタログ、千葉市美術館・大分市美術館・広島市現代美術館・読売新聞社・美術館連絡協議会、2014年、p.194

抵抗を取り締まるビラと言説

上野警察署と東上野四丁目本町会の連名で配布されたビラを見てみよう。ビラは「平素から協力していただきたいこと」として積極的な通報や監視を呼びかけるとともに、反戦運動を行う学生たちを一般市民にも危害を加える「暴力学生集団」と規定している(右下に「反戦デー」(*3)という記述があるので反戦を目的としていることは共有されている)。興味深いのは、警察官が負傷したり孤立し暴力を受けている際の救助の要請まで呼びかけている点である。また、自分たち警察の場合には「皆さんのお宅に一時避難する」と書くいっぽうで、「暴力学生集団」の場合は「お宅に逃げこんだときは」と書き、同じ行為でも言葉を使い分けている。被害者と加害者(犯罪者)を暗黙裡に定位する機能がこのビラにはある。

べ平連編『資料・「べ平連」運動 下巻』河出書房新社、1974年、p.165

抵抗を矮小化する言説も強い影響力をもつ。渡辺眸(ひとみ)(1939〜)の写真や佐々木美智子(1934〜)の映画・写真のように、この時代の闘争については優れた視覚資料も多く、当事者たちの肉声や一次資料には事欠かないが(*4)、「言論ではなく暴力に訴えた」「内ゲバで自滅した」「若者の自分探しであった」という言説が行き渡っている(*5)。警察、国家、右翼団体が行う暴力への批判以上に、抵抗実践の暴力が俎上に載せられてきた(*6)。連合赤軍による山岳ベースでのリンチ殺人と浅間山荘での立てこもりは政治の季節の終わりとして繰り返し紹介され、次のように「総括」がなされる。

「若者たちは、政治的効果など二の次で、機動隊の楯の前で空虚感を埋め、自己の「実存」を確かめるべくゲバ棒をふるい、生の実感を味わう解放区をもとめてバリケードを作った。それはあらかじめ失敗が約束された、稚拙な行為だった」(*7)

渡辺眸『フォトドキュメント東大全共闘1968‐1969』角川ソフィア文庫、2018年、p.80 初出は、撮影/渡辺眸・編集/東大全学助手共闘会議『東大全共闘 われわれにとって東大闘争とは何か』三一書房、1969年
東京都写真美術館「エクスパンデッド・シネマ再考」展(2017)より、佐々木美智子《何時か死ぬのね》(1974、写真右) Photo: Oshima Kenichiro なお、『日本の70年代 1968-1982』展(2012、埼玉県立近代美術館)においても同作に加え《日大全共闘》(1968)が紹介された

石ノ森章太郎と村上春樹が描いた、揺れる人々

もちろん人々も揺れていた(揺れているからこそビラを配る意味がある)。石ノ森章太郎(1938〜1998)のマンガ『サイボーグ009』は1965年から現実のベトナムを舞台とした「ベトナム戦争編」に突入していたが、主人公たちはベトナム戦争を終わらせてくれるわけではなかった。彼らは「ヒーロー」ではあるが、政府軍・民族解放軍(ベトコン)どちらの側にもつくことはない。あくまでも、両軍に武器を供給し戦火を拡大しようとする「黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)」の殲滅が目的である。マンガに高水準のリアリズムを導入することは勧善懲悪のストーリーとの摩擦を意味する。石ノ森はベトナム戦争に対する具体的な議論を提供することよりも、「人間」と「サイボーグ」、あるいは「正義」と「悪」のあいだで揺れる登場人物たちの「内面」をえぐり出す道を選ぶ。

連載第1回で取り上げた『ゲゲゲの鬼太郎』の「ベトナム戦記」もそうであるが、「1960年代後半、ポピュラー・カルチャー自体が子ども向けとは異なる媒体において、児童マンガの限界を露悪的に示すようになっ」(*8)ていた。安易な「反戦」やわかりやすい二項対立は敬遠され、事態が複雑であるという認識をそれぞれの形で表明することが目指されていく。

『石ノ森章太郎デジタル大全 サイボーグ009(4)』講談社、2013年、p.54

東京オリンピックや日本万国博覧会のデザインに深く関わった亀倉雄策(1915〜1997)は、そのいっぽうで、同時代のデザイナーや文化人が「反戦」を無反省に称揚することへの苛立ちを隠していない。

「この時、この「反戦」という言葉はきわめて常識的で、どっちかというと安易な響きさえ感じられた。それはベトナム戦問題の最中だけにボタンを押すように出る言葉だったからだろう。それだけに実感もさし迫った気持もないくせに調子良く時流に乗るカッコイイ言葉に聞こえて仕方が無かった。私はこの時流にのる流行言葉は嫌いである。ジャーナリズムにふりまわされているくせに、すぐその調子にのることで時代とともに進んでいるんだという態度の文化人が嫌いである。」(*9)

亀倉雄策《日本万国博覧会 海外向け第1号公式ポスター》1967 『大阪万博 1970 デザインプロジェクト』展カタログ、東京国立近代美術館、2015年、p.29

少し時代を下るが、別の例を挙げておく。村上春樹(1949〜)が「デタッチメント」と呼ぶ、自己と実社会との間に距離を設ける暮らし方は、次のような世界認識のもとで行われている。1980年に発表された『1973年のピンボール』から引用する。

「考え方が違うから闘うんでしょ?」と208が追及した。
「そうとも言える」
「二つの対立する考え方があるってわけね?」と208。
「そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない」(*10)

主人公である「僕」が双子の208と209に「ベトナムが二つの部分にわかれて戦争をしていることを納得させるのに三日かかり、ニクソンがハノイを爆撃する理由を説明するのにあと四日かかった」(*11)際のやりとりである。「二人とも僕の説明には納得しなかった。僕だって納得できなかった」(*12)──「わからない」のでも「関心がない」のでもない。「僕」にとってこの内省は言い訳である以上に、ひとつの倫理的態度でさえあった。自分の説明に自分でも納得がいってないと客観的に認識すること──村上春樹はそうした精神性に時代のアクチュアリティを宿らせていた。

イザナギと呼ばれた時代、労働者や大学生たちだけではなく、多くの高校生が、ベトナム戦争、安保条約、米軍基地、沖縄の状況、教育制度、そして校則への疑義を示していた。1969年に文部省が高校生の政治活動の禁止の姿勢を示すも、高校生たちは授業放棄、デモ、集会、座りこみ、バリケード封鎖、ハンガーストライキなど様々な抵抗を試み、「反体制ビラの配布などまで含めれば、すべての都道府県で闘争が行われた」(*13)ほどであった(この意味で現代のグレタ・トゥーンベリの活動は「例外」的なものではない)。

1972年から73年にかけて連載された真崎守(1941〜)によるマンガ『共犯幻想』(*14)に印象的なシーンがある。強者の側、正しい側、勝つ側にいるはずの警察権力が、未成年の高校生たちの蜂起に不安を隠しきれない。学校に立てこもり、最後の四人になっても抵抗を続けた高校生たちを取り調べるなかで、刑事は畏怖の感情を抱き始める。

原作 / 斎藤次郎・作画 / 真崎守『共犯幻想 下巻』ぱる出版、1993年、pp.88-89

もちろん『共犯幻想』自体はフィクションである。だがこの時代に高校生たちが闘争に参加していたことは紛れもない事実であった。県下にいる16万人もの高校生が一斉に叛乱したら──という刑事の頭をもたげた光景は荒唐無稽な妄想ではなく、当時の時代状況を反映している。

赤瀬川原平が喝破した権力側の怯え

体制側の不安について鋭利に観察を行っていたのは赤瀬川原平もそうである。自身の制作した千円札の模写が「通貨及証券模造取締法違反」であるとして取調べを受け起訴された彼は、決定権自体が常に司法の側にあることを深く理解していた(「千円札裁判」(1965〜67)*15)。物事は司法体制のなかで定義されるし、体制側の都合で変更されうる(だからこそ美学校の校長を務めた今泉省彦(1931〜2010)は憲法を最高審級としてみなすことそれ自体を否定する*16)。

赤瀬川原平 『美術手帖』1967年9月号、pp.66-67

千円札の模写が「犯罪か芸術か」という判断にとどまらず、同時期に様々な司法判断が下されている。それまでは凶器ではなかったもの──長さ1メートルの角棒、プラカード、旗竿、コーラ・牛乳の空き瓶、玉突き棒、野球用のバット──も「用法上の凶器」という概念が産出されれば、凶器として認定される(*17)。「報道の自由」と「取材の自由」が切り分けられ、後者が憲法上の保障を必ずしも享受するわけではないことも決定される(*18)。

警察もまた、「思想的変質者」(*19)という奇妙なカテゴリーを新しく作り上げてまで、取り締まりを強化する。もはや誰が思想的変質者にあたるのかという問いは意味をなさない。「犯罪であるかないかはちゃんと警察で決めてくれる」(*20)からである。しかしそこに、赤瀬川は体制側の不安を見る。

「その迷彩服に戸惑うすべてが権力なのである。その迷彩に戸惑う視線は、迷彩服を着た肉体が暴くだろう。それだけでなく、その服を迷彩とみるのが体制なのだ。」(*21)

「思想的変質者」という自らが生み出したカテゴリーを通して権力は「そこに壮大な妄想を構築していた」(*22)のであり、「妄想を徐々に実体として見出していきながら、その恐怖を振り払っている」(*23)。それに対して「迷彩」と見なされる側の戦略は「まったくキマグレだけで充分」(*24)なのだと赤瀬川は言い切るのである(*25)。

ウィリアム・マロッティは赤瀬川の言論活動を高く評価し、次のように述べている。 「1967年6月の有罪判決後、赤瀬川は何年にもわたる控訴の火蓋を切り、旺盛な執筆活動を開始する。彼は、この遭遇の批評的な可能性を説き続けることで、自身を黙らせようとする国家の動きに対抗したのである。」(著者試訳)William Marotti, Money, Trains, and Guillotines: Art and Revolution in 1960s Japan, Duke University Press, 2013,p.309

監視と大阪万博

国家と警察は反体制側を矮小化するキャンペーンを展開しながら、他方で「迷彩への不安」を技術的にも解消しようとする。こうして、セキュリティシステムがイザナギと呼ばれた時代に実装されていく。日本における監視カメラの導入を振り返ると、1957年には既に政府レベルでも災害時の警察通信設備として実験的な使用が模索され始めており、「一九六〇年には、「有線テレビの隠しカメラ」が新宿の交番に試験的に設置され」(*26)た。

とはいえ、大阪・釜ヶ崎という重要な例外があるものの、60年代における監視カメラは基本的に「多様な目的に用いられうる物珍しい技術として紹介される域を出ていなかった」し、あくまで「警察署や交番から遠くの一地点を確認するという遠視の技術として理解され」(*27)るにとどまっていた。しかし1970年、雲行きが変わる。「複数台のカメラによって一定の閉鎖空間を防犯のために監視するという一九七〇年代以降の動向を先取り」し、まさに「一九六〇年代と七〇年代の転換点に位置していた」(*28)壮大な統治テクノロジーの実験が行われるのだ。日本万国博覧会──大阪万博である。

宇佐美圭司 エンカウンター ‘70 1970 鉄鋼館 Photo:©︎ Osamu Murai

大阪万博といえば、岡本太郎(1911〜1996)や具体美術協会は言うに及ばず、中谷芙二子(1933〜)の《霧の彫刻》や宇佐美圭司(1940〜2012)のレーザーインスタレーション《エンカウンター’70》、2014年にデジタル復元された安部公房(1924〜1993)と勅使河原宏(1927〜2001)の《一日二四〇時間》(*29)、あるいは三井グループ館屋外で再制作された関根伸夫(1942〜2019)の《位相-大地》(*30)など、これまでも様々な作品の分析が進められてきた。だが古畑百合子は「テレビというメディア、実験室としての万博」という論考において、まったく別の視点を提供している。

「大阪万博における映像テクノロジーの実験と言うと、これまで多くの場合、拡張映画や環境芸術(エンヴァイロンメンタル・アート)としてのマルチスクリーン投影、あるいは三角広場でのテレビ実験が論じられてきたが」、古畑は「会場警備や群衆管理などの「統治の実験室」と言う視点から万博を見直す」(*31)ことを提案するのである。万博には「約40台の監視テレビのモニター、それに無線電話、テレビ電話」が設置されており、「万博の警備隊は、会場内のあらゆる場所での観客の動きを把握し、なにか事故やデモなどが起った場合、瞬時に対処できる体勢をとる、そのような実験だった」(*32)。

統治の「最新テクノロジー」は『日本万国博覧会公式ガイド』でも、混雑状況の可視化や迷子・遺失物の早期発見というかたちで強調されている。「アーティストや映像作家による、マルチスクリーン形式のテレビや映画の実験が各所で行われていたいっぽうで、万博の管理棟では、別のかたちでフィードバック機能を取り入れた、コミュニケーションの実験が行われていた」(*33)わけである。インタラクティブかつインターメディアなアートと、CCTV(クローズド・サーキット・テレビ・カメラ)による監視システムは、いわば同じ技術の表と裏として万博において披露されていた(*34)

『日本万国博覧会公式ガイド』日本万国博覧会協会、1970年、pp.254-255
監視用テレビ  『日本万国博覧会公式記録 第二巻』日本万国博覧記念協会、1971年、p.532
CCTV(クローズド・サーキット・テレビ・カメラ) 日本万国博覧会記念協会編『日本万国博覧会公式記録 第二巻』日本万国博覧記念協会、1971年、p.503

統治システムの完遂。体制への同調。デタッチメント。自分探し。あらためて書くが、今日「イザナギと呼ばれた時代」を回顧するならば、こうしたトーンがやはり強いように思われる。そこでは美術館の外へ飛び出した前衛美術もまた、一瞬の閃光、たんなる「破れかぶれ」の様相を呈するほかない(*35)。しばしば紹介される、太陽の塔に男が立てこもった「アイジャック事件」や、ダダカンこと糸井貫二(1920〜2021)の全裸疾走は統治システムの徹底が進んでいることの裏返しである──。

あまりにペシミスティックで現状追認に資する議論ではないだろうか。こうした諦観が活発になされるいっぽうで、管理の技術がいかに杜撰で下品であった(ある)のか、そしてどのように打ち破られていた(いる)のかということは語られにくい。万博において頻繁に行われていたストライキについて書く(*36)。

統治システムを支えた女性労働者たちのストライキ

万博の様々なシステムはそれらを媒介し、メンテナンスする人間なしには成立し得ない。たとえば山口勝弘(1928〜2018)がプロデューサーを務めた三井グループ館の映像インスタレーションは映写オペレーターたちによって支えられている。しかし「万博での仕事は開催期間の六ヶ月に限定した有期雇用」であり「「いい経験をさせてやっている」と考える雇用者には労働者の権利に対する意識が希薄」(*37)であった。

山口勝弘プロデュースの三井グループ館 出典:https://www.expo70-park.jp/cause/expo/mitsuigroup/
三井グループ館の映写オペレーター 『千里の丘より エキスポ労働者の闘い』1970年、p.24

大阪総評(日本労働組合総評議会大阪地方評議会)の宮崎良勝、尾上文男、伍賀偕子は、本来の組合活動から外れることも厭わず、高田節子らとともにエキスポ総合労働組合を結成し、団結して交渉にあたる。伍賀は万博協会から会場へのフリーパスを獲得し、会期中50回にもわたって万博を訪れた(*38)。前述の三井グループ館の映写オペレーターたちは恫喝や退職勧告を受けながらも団交を重ね、労働時間の短縮や、映写室の常駐を巡回制にすることに成功している。「会場内を走る電気自動車オペレーターは良家の子女が通うことで知られる大学の学生」であったが「彼女たちがストを打ち、多くの若者、女性が自らの権利保護を訴えた」(*39)。

電気自動車オペレーターたちのストライキ 『千里の丘より エキスポ労働者の闘い』1970年、p.17

なかでも重要なのは「統治システム」を円滑に運営するために雇用されていた女性労働者によるストライキである。彼女たちは専用のコスチュームを着用し、ポケベルを携帯し、「会場内の各部署から、情報通信中央監視制御室へ収集した運営情報を送り、同監視制御室ではこれを処理してから必要な部局へ情報を伝達する業務に従事」(*40)していた。万博協会は彼女たちを「データ・スワローズ」と命名し、積極的にPR活動を行っている。「データ・スワローズ」は万博会場内の情報統制において極めて重要な役割を担っていたが、雇用状況はそれに見合うものではまったくなかった。

データ・スワローズ 『大阪万博 1970 デザインプロジェクト』展カタログ、東京国立近代美術館、2015年、p.84

7月12日、64名(*41)の「データ・スワローズ」が生理有給休暇の取得、ボーナス支給、賃上げなどを求め二時間の時限ストライキを敢行する。彼女たちの労働がなければ万博内の情報は集約できない。翌朝の朝日新聞が報じたところによれば(*42)、このストで協会本部が各展示館、警備本部、案内所など会場の約110のエリアにテレックスで流している情報がストップし、中央制御室にある表示板も、駐車場の利用状況や展示館への待ち時間などの情報が入らなくなった。内外から一日約千件の電話がある問い合わせ室も機能不全となり、会場内の電光掲示板の表示も消えた。ストライキの様子を記録した写真のほとんどは労働者たちや横断幕(*43)を映したものであるが、「データ・スワローズ」のストライキについてはスト宣言が貼られた数字の表示されていない電気パネルの写真が残されている(*44)。

AA人民連帯大阪・新左翼・列島新報編『乙女は起ちて輪を結び赤旗なびかせストライキ エキスポ総合労組の闘い』労働運動研究会、1970年、口絵
データ・スワローズのストライキ 『千里の丘より エキスポ労働者の闘い』1970年、p.52

たかだか2時間のストライキに対して過大に評価しすぎだと思われるだろうか。そうかもしれない。だが、万博が管理社会の前奏であり、前衛美術はその共犯関係にあったという古畑の指摘をとりあげるからには──その分析が正鵠を射ているからこそ──忘れずに書きとめておきたいのである。1970年の最先端統治システムは、生理有給休暇を求める女性たちのストライキによって一度破られている。

データ・スワローズのストライキ AA人民連帯大阪・新左翼・列島新報編『乙女は起ちて輪を結び赤旗なびかせストライキ エキスポ総合労組の闘い』労働運動研究会、1970年、口絵

(つづく)

※使用した写真に映る方々に対しては連絡がついておりません。情報を御存知の方はお知らせいただけますと幸いです。また調査に際しては大阪産業労働資料館(エル・ライブラリー)に大変お世話になりました。記して感謝いたします。

*1──筆者のインタビューによる。
*2──村上龍『ポップアートのある部屋』講談社、1989年、p.203
*3──10月21日の「国際反戦デー」は、1966年10月21日のストライキをその起源とする。この「10・21」ストライキは世界初のベトナム反戦ストであり、加えて、まさにいま継続している戦争に反対するストライキという意味では日本ではじめてのものであり、そしてあのサルトルも賞賛の言葉を送ったーーと言われる。しかしこれがすでに忘却の上に語られる史観である。兵頭淳史の記述を引く。「しかし、実はこれに先立つ同年6月25日、総評傘下の一産業別組織である全国印刷出版産業労働組合総連合会(全印総連)の東京地方合会によるベトナム反戦ストが実施されており、これこそが、組織労働者によるベトナム反戦ストの先駆けと位置付けられなければならない。」(兵頭淳史「組織労働者の反戦運動と経済闘争―10・21ベトナム反戦スト前史における総評・全印総連の動向を中心に」『大原社会問題研究所雑誌』2016年、p.28)
「1966年6月8日、全印総連東京地連は中央委員会決定にもとづき、各加盟単組に「小選挙区制反対、ベトナム侵略戦争阻止、米原子力軍艦「寄港」拒否、諸物価の値上げ反対」要求でのスト権投票を実施し、6月25日に「15分ストの体制をつくる」指示を発した。これに従い、25日には同地連傘下の38単組・分会で15分間から最長2時間のストライキが実施されたほか、17単組・分会で時間内食い込み職場大会あるいは地域への署名行動などが行われた。また、この行動に対しては、国労・全金・新聞労連などの東京地方組織からも「連帯と激励」がよせられた。短時間の時限ストではあったが、これが「10・21」に先立つこと約4ヶ月にして、ベトナム反戦を目標に掲げる世界初のストライキ闘争となったのである。」(同、p.33)
*4──「1968年という「政治の季節」において、例えば日本の写真界に限って言えば、渡辺眸のように、数々の学生闘争を見つめた女性写真家がおり、また当時集団で活動した全日本学生写真連盟には、多くの女子学生が含まれていたという。」(田坂博子「エクスパンデッド・シネマ再考」『エクスパンデッド・シネマ再考』展カタログ(東京都写真美術館、2017年、p.89))
*5──凄惨な虐殺が行われた事実は忘れられてはならない。1972年に早稲田大学の自治会室で一般の学生である川口大三郎が革マル派学生からリンチを受け殺された事件はとりわけ大きな衝撃を与えた(川口大三郎君追悼資料室 http://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/kawaguchitsuitou.htm)。樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋、2021)の参考文献にも上がっているように、当時早稲田に在籍していた村上春樹(1949〜)は、『海辺のカフカ』でこの事件を間接的に参照している。画一的に男女共用トイレを批判するフェミニストを論破する流れとセットになっているので議論が粗雑になっているが、村上が体制側への批判以上に「運動」への不信感を表明するのはこうした事件が背景にあると考えられる。

「「想像力の足りない人をいちいち真剣に相手にしていたら、身体がいくつあっても足りない、ということ?」と僕は言う。
「そのとおり」と大島さんは言う。そして鉛筆の消しゴムの部分で軽くこめかみを押さえる。「実にそういうことだ。でもね、田村カフカくん、これだけは覚えておいたほうがいい。結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか――もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合は取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。僕としては、その手のものにここには入ってきてもらいたくない」」(村上春樹『海辺のカフカ〈上〉』新潮社、2002年、pp.385-386)
*6──警察による物理的な暴力はもちろんのこと、恣意的な法整備も進んだ。東大闘争後成立した「大学の運営に関する臨時措置法」の暴力性やその強行採決については以下が詳しい。
市川周佑「「大学の運営に関する臨時措置法」の成立過程 政府・与党の動向を中心として」『史学雑誌』130巻9号、2021年、pp.1-37
*7──小熊英二『1968 <下> 叛乱の終焉とその遺産』新曜社、2009年、p.981
*8──森下達「石ノ森章太郎作品におけるベトナム戦争ー戦後児童マンガの変容を考えるー」『日本マンガ学会 マンガ研究』vol.25、2019年、pp.50-51
*9──亀倉雄策「反戦という言葉」(初出『潮』1968年6月号)『デザイン随想 離陸 着陸』美術出版社、1972年、p.60
*10──村上春樹『1973年のピンボール』講談社、2004年、p.40
*11──同、p.39
*12──同、p.40
*13──小林哲夫『高校紛争 1969-1970 「闘争」の歴史と証言』中公新書、2012年、iii
*14──吉本隆明『共同幻想論』(1968)を踏まえているタイトルである。
*15──最高裁の判決は1970年4月である。
*16──「我々はまず、憲法に規定されているが故に「表現の自由」があるのではないということを肝に命じておく必要がある。そんな憲法規定なんぞ豚に喰わしてよろしい」(照井康夫編『美術工作者の軌跡 今泉省彦遺稿集』海鳥社、2017年、pp.92-93)
*17──刑法208条の凶器準備集合罪において、銃のような「性質上の凶器」とは異なり、その用いられ方によって凶器となる道具を扱う際の概念。凶器概念が拡大するとともに、他の犯罪の立件のために、本人が「凶器を準備した」と考えていないものにまで適用されることが危惧される。最高裁決定昭和45年(1970年)12月3日。
*18──博多駅テレビフィルム提出命令事件。最高裁決定昭和44年(1969年)11月26日。
*19──「思想的変質者」赤瀬川原平『赤瀬川原平の文章 オブジェを持った無産者』河出書房新社、2015年、p.300(初出:1969年)
*20──「オブジェを持った無産者」赤瀬川原平『赤瀬川原平の文章 オブジェを持った無産者』河出書房新社、2015年、p.8(初出:1967年)
*21──「思想的変質者」赤瀬川原平『赤瀬川原平の文章 オブジェを持った無産者』河出書房新社、2015年、p.300(初出:1969年)
*22──同、p.297
*23──同、p.299
*24──同、p.299
*25──それゆえに赤瀬川は針生一郎が企画した「反戦と解放」展(1968年)に対しては、売上をベトナムの民衆のために使用するというやり口が凡庸であり、芸術の潜在的な力を過小に評価していると批判する。
「”現実的な力”となる芸術はすでに固型した芸術作品ではありえないのである。」
「芸術は武装放棄せよ」赤瀬川原平『赤瀬川原平の文章 オブジェを持った無産者』河出書房新社、2015年、p.340(初出:1968年)
*26──朝田佳尚『監視カメラと閉鎖する共同体 敵対性と排除の社会学』慶應義塾大学出版会、2019年、p.42
*27──同、p.46
*28──同、p.59
*29──丹羽美之・吉見俊哉編『戦後史の切断面 公害・若者たちの叛乱・大阪万博 (記録映画アーカイブ3)』(東京大学出版会、2018年)に友田義行による論考「『1日240時間』と安部公房・勅使河原宏」とともに《1日240時間》(ダイジェスト版、約10分)の映像データが付属している。
*30──梅津元「ふたたび、《位相-大地》をめぐって(後編:万博編)」『ソカロ:埼玉県立近代美術館ニュース』70号、2014年
*31──古畑百合子「テレビというメディア、実験室としての万博」『AMC ジャーナル 芸術情報センター活動報告書』vol.1、東京芸術大学芸術情報センター、2015年、p.132
*32──同、p.131
*33──同、p.131
*34──「会場計画の基本構想」を読めば、管理と創造の両面は意識的に強調されてすらいることがわかる。
「会場では人工頭脳の管理システムによって、会場全体の運営や、大量の交通、会場に集る[原文ママ]自動車を円滑にさばくなど、新しい技術がフルに活躍しています。またお祭り広場で展開される演技・光・色・音・水といったあらゆる要素が参加して行われる演出は、人工頭脳の活用によって人間と技術の関係を目に見える形で展開します。」
『日本万国博覧会公式ガイド』日本万国博覧会協会、1970年、p.19
*35──もちろん、こうした動きを「破れかぶれ」と十把一絡げにすることなく、個別に文脈づけていく仕事も行われている。黒ダライ児は長年に渡り、「微弱であり散発的であり孤立していたとはいっても、美術家たちが「肉」を賭けた行動をした例を見出すことができる」として、様々な表現行為の記録と議論を継続している。
黒ダライ児「美術家の「表現行為1968-1970 〈万博破壊共闘派〉を中心に」四方田犬彦・平沢剛編著『1968年文化論』毎日新聞社、2010年、p.77
*36──もうひとつ言及しておきたい。万博はインクルーシブな取り組みとして「精神薄弱者福祉施設[表記ママ]6施設692人などを9月初春までに招待」(『人類の進歩と調和 大阪開催のあゆみ』大阪府、1970年、p.101)するのと並行し、精神障害者への警戒を行っている。これは1965年の精神衛生法改正に伴うものと推察されるが、この法改正によって、警察官などが社会防衛のために通報・届出を行う制度が強化され、精神障害者の緊急措置入院制度も設けられることとなった。警察部会は1969年6月から7月にかけて「関係機関との連携強化」を行い、10月には「要保護者の実態把握」を行うことが記されている(『人類の進歩と調和 大阪開催のあゆみ』大阪府、1970年、p.176)。言うまでもなく、人権侵害である。国家によるラベリングと排除に抗議することは「自分探し」だろうか。制度から明確に敵意を向けられた「割を食う」側の者たちは、自分でも納得がいっていない説明を再生産することになど甘んじられない。そこには必ず「今なされているようには統治されない」ための行動が伴う。
また、「1970年の大阪万博では精神障害者を入場させないようにとの衛生部長通達が」あったという記述が井上正吾、小池清編『精神障害』(医歯薬出版、1972年、p.20)にあり、同文献を参照して衆議院法務委員会でも1975年に諫山博によって議論が行われていることも付記しておく。ただし、同書籍がその根拠として引用している花井進の論文「天皇行幸に伴う三重県下のいわゆるアルコール中毒者入院の実態」(『三重精神医療』1972年)には万博に関する記述は見つけられなかった。論考の元となる花井の口頭発表時にそういった言及があった可能性もあるが、いずれにせよ、より詳細な調査が必要である事柄であることを明記する。なお、本件については佐久本佳奈「「産業廃棄物」は東の海へ 「海洋博」をめぐる人の移動――本部茂『東山里五郎の奇妙な日帰り出張』について」(『地域研究』No.21、沖縄大学地域研究所、2018年、pp.1-23)に大きな示唆を得ている。記して感謝する。
*37── 伍賀偕子「調査で対抗する、運動をつくる」朝倉むつ子・萩原久美子・神尾真知子・井上久美枝・連合総合生活開発研究所編著『労働運動を切り拓く 女性たちによる闘いの軌跡』旬報社、2018年、p.226
*38──筆者のインタビュー並びに、伍賀氏の当時の手帳記録による。内訳を見ると、4月4回、5月9回、6月15回、7月11回、8月9回、9月2回となっている。
*39──伍賀偕子「調査で対抗する、運動をつくる」朝倉むつ子・萩原久美子・神尾真知子・井上久美枝・連合総合生活開発研究所編著『労働運動を切り拓く 女性たちによる闘いの軌跡』旬報社、2018年、p.226
*40──日本万国博覧会記念協会編『日本万国博覧会公式記録 第二巻』1971年、p.492
*41──「情報通信システムを運営するため、協会は44年[1969年]7月、情報通信職員を採用し、研修を実施した。業務担当の情報通信職員は129人(女子120人、男子9人)」であった。(日本万国博覧会記念協会編『日本万国博覧会公式記録 第二巻』1971年、p.492)
しかし、実態はより残酷である。「データ・スワローズ」のなかでも雇用形態の違いがあり、格差が生じている。「120名」のデータ・スワローズのうちストライキを行ったのが64名に留まるのは、この「雇用格差」に基づく。
「彼女たちは、昨年秋の一流新聞や週刊誌紙上、広告”エキスポ・オペレーター参加生募集”をみて応募、手数料一〇〇〇円と授業料四万五〇〇〇円を払って三ヶ月間授業を受けたのち、いざ働く段になって雇用主が万博協会ではなく、日本データービジネスK・Kであることをはじめて知らされた。協会情報通信課と当社の委託の間にはまだ日本ビジネスコンサルタントと大阪東通の二社が介在している。委託従業員五〇〜六〇人に対し、協会職員のデーター・スワローズ約七〇人は協会から賃金を保障されて講習を受け、同じユニホームを着、同じ仕事をしながらネームプレートの色が違うだけで協会職員と日給一〇〇円の差(日給一五〇〇円)、一時金二ヶ月分支給に対し彼女たちは零。このような差別待遇と雇用時における万博協会と会社が結託したペテンに対し怒りの涙で抗議している。」(伍賀偕子「私の発言 万博会場からの「人権宣言」」『エコノミスト』1970年7月28日号、p.59)
*42──朝日新聞東京朝刊1970年7月13日号、19面
*43──ストライキの増加に伴い大量の横断幕が必要となったが、これらは「全港湾関西地方建設支部西成分会」が提供した。この返礼として釜ヶ崎の日雇い労働者たちの闘争時、エキスポ総合労組は彼らに横断幕を寄贈している。伍賀氏へのインタビュー並びに『全国の建設土木労働者団結せよーー釜ヶ崎解放10余年の歩みーー』(全港湾関西地方建設支部西成分会、1981年、p.136)参照。
*44──万博において電気パネルの写真が象徴的に残っている例はもうひとつある。データ・スワローズのストライキのおよそ一ヶ月後の8月8日、万博の電力に福井県・美浜原発1号機の電力が使用されたことを告げる文字がお祭り広場の電光掲示板に表示され、写真に記録されている。美浜原発は国内の電力会社が手がけた初めての原子力発電所であった。初の原発、大阪万博照らす 電気が生まれた(4)日本経済新聞電子版 2015年8月28日
https://www.nikkei.com/article/DGXLASHD21H34_T20C15A8960E00/

長谷川新

長谷川新

はせがわ・あらた 1988年生まれ。インディペンデントキュレーター。京都大学総合人間学部卒業。専攻は文化人類学。主な企画に「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」展(2013-14)、「無人島にて―「80年代」の彫刻 / 立体 / インスタレーション」(2014)、「パレ・ド・キョート/現実のたてる音」(2015)、「クロニクル、クロニクル!」(2016-17)、「不純物と免疫」(2017-18)、「グランリバース」(メキシコシティ、2019-)、「αM Project 2020-2021 約束の凝集」(2020-21)、「熟睡、札幌編 / 東京編」(2021-22)、「Gert Robijns: RESET MOBILE- Crash Landing on Akita」(2022)など。共同モデレーターを務めた大阪中之島美術館の開館記念ラウンドテーブル「美術館学芸員がいま相談したいこと」がYouTubeで公開中。https://www.youtube.com/watch?v=hmYr9t9VVsI&feature=youtu.be