最終更新:2021年10月12日

戦争画だけではない、情緒と沈黙の画家。「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」展レポート

東京ステーションギャラリーにて開幕した、初の大規模な回顧展。

闇に横たわる将校の遺体と、仲間の名前が寄せ書きされた日の丸。一度見たら忘れられない強烈な印象を残す戦争画《國之楯》(1944)は日本画家、小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)の代表作として広く知られている。しかし、秋聲は戦争画だけではないじつに多彩な画業を築いたことを知っているだろうか。

初期の歴史画から初公開の戦争画、晩年の仏画まで、約100点の作品で秋聲の画業を見渡す初の大規模な回顧展「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」が10月10日、東京ステーションギャラリーでスタートした。

会場風景より、《譽之的》(1944)

秋聲は1885年、鳥取の光徳寺住職の長男として生まれた。9歳で京都の東本願寺の僧籍に入るが、幼少期から絵を好み、画家を志し、谷口香嶠や山元春挙に師事。文展や帝展への出品を重ねながらヨーロッパやアジアにも遊学するなど、多くの研鑽を積んだ。従軍画家として度々中国などへ赴いたのは、その後のことだ。

「旅する画家」としての素顔

4章からなる本展の1章では、主に京都での修行時代の作品が揃う。この頃の秋聲は日本画家の谷口香嶠に師事し、《小督》《譽之的》(ともに明治末期〜大正期)など緻密な日本画を多く描いている。1909年、京都市立絵画専門学校が開校すると同校に入学するも、東洋美術研究のため退校しまもなく中国へ。ここから、旅する画家としての秋聲がスタートした。

会場風景より、「秋聲 画質にて」『私の写真輯』
会場風景より、左から《譽之的》《楠公父子》(ともに明治末期〜大正期)

本展でもっとも大きなボリュームを占めるのは、第2章「旅する画家─異文化との出会い」。その理由を、本展担当学芸員の柚花文(東京ステーションギャラリー 学芸員)は、「《國之楯》だけではない、国内外を旅する画家としての側面を強調したかったからです」と話す。

その話の通り、この章からはひとりの画家が知らない文化を見つめる豊かな眼差しが見えてくる。たとえば、上・中・下の3巻からなる《玩具絵巻》(1916)では、十二支の動物をかたどった玩具、季節ごとの行事や祭礼に関連した玩具、全国の郷土玩具などが好奇心に満ちた筆致で描かれる。山陰各所をめぐり紀行文とともに描かれた《裏日本所見画譜》(1918)も、写真を撮るように光景を描きとめた軽妙さが印象的だ。

会場風景より、手前が《玩具絵巻》(1916)
会場風景より、《恋知り初めて》(大正期)
会場風景より、《未來》(1926)

20代で数年おきに中国を訪れていた秋聲は、その後30代でインドやヨーロッパに関心を移し、約2年半にわたる「遊学」を楽しんだ。ヨーロッパでは「軽装孤独」をモットーに、フットワーク軽く各地を訪れ、とくにイタリアを気に入ったという。

本展は京都文化博物館からの巡回展だが、京都で来場者からの指摘により明らかになった新情報がある。それは、遊学からの帰国後にオランダのスケッチをもとに描いたとされる《長崎へ航く》(1931)が、じつはアンリ・カシエによる「Red Star Line」(アントワープからアメリカへ向かう航路)のポスターをイメージソースとしていたということ。秋聲はこのポスターをヨーロッパのどこかで目にしたと推察され、異国の視覚文化を貪欲に受け取った秋聲の姿が見えてくる。

会場風景より、《長崎へ航く》(1931)

穏やかな「戦争画」

このヨーロッパの旅は、このときが最初で最後になった。秋聲は従軍画家としてたびたび戦地に赴くことになったのだ。第3章は、前章から一転、代表作《國之楯》をはじめとした戦争画の数々が異質な雰囲気をつくり出している。

本展担当学芸員の柚花は、秋聲の戦争画について次のように話す。「戦争画でありながら穏やか。《御旗》(1926)はよく見ると、銃の上にバッタが留まっていることがわかります。情緒的な要素が含まれているのが秋聲の戦争画だと思います」。

たとえば、本展で初公開となる《虫の音》は、穏やかで情緒的な秋聲の作風がはっきりと見てとれる一作。戦地の兵士が折り重なるようにぐっすりと眠り込む様子が描かれており、兵士たちの静かな表情からもおよそ戦争画には似つかわしくない穏やかな雰囲気がある。秋聲は本作のほかにも、兵士や銃後の家族の眠る姿を、彼らが見る夢とともにたびたび描いたという。

《御旗》(1934)京都霊山護国神社(日南町美術館寄託)
会場風景より、《虫の音》(1938)

そして、《國之楯》。暗い背景に陸軍将校の遺体が描かれる本作は「戦争画」と聞いてまっさきに思い浮かべる人も多いのではないだろうか。天皇に見せるため描かれたが当初は陸軍が拒否し、一般に公表されたのは終戦から23年後という本作は、じつは本来、将校の体の上に桜の花が降り積もるように描かれていたという。秋聲研究家の松竹京子は、桜と、それがぬりつぶされた経緯について次のように推測する。「桜には、“日本はあなたたち(戦争で命を落とした兵士)を迎えますよ”というメッセージが込められていたのだと思います。けれど、実際に戦争を経験し、桜の花びらを降らせるくらいではどうにもならないものがあると感じ、塗りつぶしたのではないでしょうか」。塗り重ねられた絵の具の層に、秋聲の葛藤が重なる。

《國之楯》1944年、京都霊山護国神社(日南町美術館寄託)
会場風景より、左から《國之楯》下絵(1944)、《日本刀》(1940)

戦後、体調を崩した秋聲は、大規模展覧会の出品はほとんどせず、仏画や仙人を描いた小品、あるいは干支をテーマにした小品を多く手がけた。1965年、71歳で描いた《天下和順》(1965)は、煌々と光る満月の下で酒を飲み、踊る人々を描いた楽園的な作品。タイトルの「天下和順」とは、東本願寺の僧籍を持つ秋聲が真読した経典「無量寿経」の中の、とくに秋聲が好んだ一節で、平和な世の中を願い唱える意味があるという。この章では、従軍画家としての大役を終え、ふたたび自由にモチーフを選んだ秋聲の穏やかな美意識を堪能したい。

画家であり、僧侶であり、軍人だった秋聲の多面性と「軽装孤独」な好奇心は、唯一無二の絵画空間をつくり出す。《國之楯》の暗闇の奥に広がる穏やかな光を見られるのはこの展覧会だけだろう。

会場風景より、左から《聖火は走る》(1963)、《聖母子像》(1945〜74)
《天下和順》(1956)鳥取県立博物館

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Chiaki Noji

Chiaki Noji

2019年12月よりTokyo Art Beat / Editor in Chief。Twitter:@nojichiaki

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