往復書簡:クリストファー・リューピング×川上未映子。愛や孤独、親密さへの欲望を描く舞台『渇望』をめぐって

舞台芸術祭「秋の隕⽯2026東京」で10月17日、18日に上演。ドイツの気鋭演出家と、小説家・川上未映子が言葉を交わし合った

『渇望』舞台写真 © Thomas Aurin

今秋、東京芸術劇場を中心に開催される「舞台芸術祭『秋の隕⽯2026東京』」にて上演される『渇望』(公演日:10月17日、18日)は、いまドイツ語圏演劇界で大きな注目を集める気鋭の演出家クリストファー・リューピングによる作品だ。

原作は、28歳で自ら命を絶った劇作家サラ・ケインの戯曲『CRAVE(渇望)』(1998年初演)。ケインの戯曲との出会いを機に演劇の道へ進んだというリューピングは、詩のような断片的なテキストを発する4人の俳優に加え、原作にはない5人目の役を考案した。舞台上でその俳優は「反応する存在」として配置され、一言も発することなく、表情のみがスクリーンに映し出される。30年前の戯曲に刻まれた、希望や恐れ、暴力性、救いを求める切実さ。本作は、5人の俳優の身体を通して、時代を超越した本質を現代の観客に突きつける。

リューピング演出作品の日本初演を前に、Tokyo Art Beatでは、リューピングと小説家の川上未映子に往復書簡を依頼した。川上の小説『夏物語』(英題:Breasts and Eggs)の舞台化をリューピングが手がけたことから交流を深めている両者。『渇望』ドイツ公演の映像を見た川上の質問から、手紙のやりとりは始まった。演出家と小説家、ふたりの表現者の親密で刺激的な文章の対話をお届けする。【Tokyo Art Beat】


*チケット割引情報🎫

Tokyo Art Beatの有料会員機能「オンラインミューぽん」を使うと「クリストファー・リューピング『渇望』サラ・ケイン作」のチケット料金が200円OFFに! 会員ログイン後にイベントページからご利用いただけます。詳しい使い方はこちら。

...

川上未映子→クリストファー・リューピング:『渇望』にまつわる3つの質問

親愛なるクリストファー、お変わりありませんか。コロナ禍と家族の加療のために渡航できず、あなたが2022年から数年にかけてタリア劇場で演出、上演した『夏物語』を観ることができなかったことが、ずっと心残りでした。けれど去年の秋はハンブルクで対談が叶い、今年の春には東京で岡田利規さんとともに素晴らしいひとときを過ごし、そして今度はあなたの作品とともに、また東京で再会できることを心から嬉しく思っています。   

あなたの演出されたサラ・ケイン『渇望』を英語字幕で拝見しました。ケインの戯曲は日本語訳され、過去にもさまざまな形で上演されているのですが、わたしは未見で、日本語テクストも入手が難しく、わたしにとって今回が初めてのケイン作品になりました。あなたの演出した『渇望』には即興、空間芸術、ダンス、音楽、映像、ドキュメントといった要素が高密度でひしめいており、ケインの言葉の強度とそれらが緊張感をもって屹立しながら完全に交感し、その切実な運動が、いまもありありと体のなかに残っています。素晴らしい舞台でした。この感動とともに、今日はあなたにいくつかお尋ねしたいと思います。

『渇望』舞台写真 © Thomas Aurin

まず、サラ・ケインの戯曲を演出することについて、聞かせてください。あなたは、若い頃のサラ・ケインとの出会いを、演劇への「イニシエーション」のようなものだったと話しています。いっぽう現在では、ケインの時代には左派的な芸術の力だった「挑発」が、むしろ右派政治の有効な手段となり、自分はもはや挑発を芸術的な方法として信じていない、とも語っています。それでもあなたはケインに戻り、今回の『渇望』では、彼女の鋭さや暴力性や暗さだけでなく、ユーモアや「優しさ」を見出そうとしています。そこに、ケインのラディカリズムを現在へ引き継ぐ、べつの可能性があるように感じました。

かつての挑発が、他者を傷つけるほど強く言葉を投げつけることで観客を揺さぶるものだったとすれば、あなたが見いだそうとしているケインの「優しさ」は、どのような力なのでしょうか。それは、かつて「挑発」が担っていた力に代わるものなのでしょうか。それとも、ケインにおいて、あるいはあなたにおいて、暴力と優しさは対立するものではなく、ともに他者へ届こうとする、おなじ切実さの異なる現れなのでしょうか?

『渇望』舞台写真 © Orpheas Emirzas

つぎにお聞きしたいのは、ヴィプケ・モレンハウアーが演じる、5人目の役者の存在です。彼女はほとんど語らず、言葉を聞き、見つめ、それに反応する。舞台の内部に、もうひとりの「観客」がいるようにも見えます。わたしたちは4人を観ると同時に、4人を観ているヴィプケを観ます。つまり劇場という空間のなかで、「見る/聞く者」という観客の位置そのものが二重化される。けれどヴィプケの反応は、わたしたちの反応と必ずしも一致しません。そのずれによって、わたしたちは彼女を観察するだけでなく、自分自身が何を見て、何を聞き、どう反応しているのかまでを意識させられることになります。あなたはこの上演を「直接性」によって成り立つものだと話しています。

しかし、じっさいには、ケインの言葉と観客のあいだにヴィプケという身体を置き、あえて経路を長くしている。ここには重要な逆説があるように思うのです。わたし自身──最後の場面でさらに遠くなったはずのヴィプケが驚くほど迫り、自分でも理由のわからない涙がにじみました。なぜ、この「迂回」が、あなたのいう、このような直接性を生むのでしょうか。

『渇望』舞台写真 © Thomas Aurin

最後の質問です。ヴィプケは、自分自身の記憶や経験を演じるための材料にせず、テキストによって、その場でじっさいに引き起こされるものを受けとろうとしている、そうでないと狭くなってしまうから、と話しています。『渇望』では、人物の心理的な来歴や文脈は取り去られているのに、愛や欲望、喪失や暴力、孤独といった感情の強度は、むしろ剥きだしのまま言葉のなかに残っています。であるとすれば、役者はテキストにすでに役者が知っている感情を与えるのではなく、テキストによって身体に何かを起こされる存在だとも考えられます。このように役者が演じるとき「演じる」とは、何をしていることになるのでしょうか。テキストを読みあげることと、演じることの違いは、何なのでしょうか。

そして、これは観客の問題でもあります。わたしたちも作品にふれるとき、自分の記憶や経験をとおして受けとめ、理解しようとすることがあります。けれど、それだけでは作品を自分がすでに知っているもののなかに回収してしまうことにもなる。わたしが共感というものに慎重になるのは、このためです。いっぽう、自分のなかにはまだなかった感情や認識を呼びさまされる鑑賞もある。あなたは、役者とテキスト、そして観客と作品の関係に、何か理想的なありかたを思い描いていますか。たとえば観客が自分の経験を手がかりに作品へ近づきながら、作品をその経験のなかに回収するのではなく、逆に作品によって、自分がすでに知っている感情や経験の輪郭そのものを揺さぶられる──あなたにとって演劇とは、その両方が起こりうる場所なのでしょうか?

...