
タリン旧市街 撮影:筆者
この夏に1週間ほどエストニアに滞在した。エストニアは北欧に位置する人口135万人ほどの小国だ。首都タリンは中世以降ハンザ同盟の一角として栄えた港湾都市である。旧市街地全体が世界文化遺産(「タリン歴史地区」)に指定されている。観光客に人気の「オルデハンザ(Olde Hansa)」は中世の商館をイメージした外観をしている。そのレストランには日本語メニューが用意されていて驚いた。後述する事情と関係があるのだろう。意外かもしれないが、1990年代以降のエストニアと日本には深いつながりがある。
大国に囲まれた小国として、エストニアは13世紀以降、デンマーク、スウェーデン、ロシアなどの外国勢力から侵略と支配をたびたび受けてきた。東アジアの文脈に置き換えれば、こうしたエストニアの歴史は前回のエッセイで取り上げた台湾を彷彿とさせる。16世紀以降、台湾もオランダ、スペイン、日本などによる侵略と支配にさらされてきた。1917年のロシア革命に乗じて、翌1918年にエストニアは独立を宣言。1921年には国際連盟への加盟も果たす。しかし第二次世界大戦中、ソ連、次いでナチス・ドイツに占領される。大戦末期には、ふたたびソ連に占領され併合された。
ところでなぜエストニアに行ったかというと、目的は大学間交流である。ぼくは勤務する大学の美学美術史学科に所属しているが、学科横断的な組織である「ソーシャル・アントレプレナーシップ研究所(SE研)」にも籍を置いている。しばしば「起業家精神」と訳される「アントレプレナーシップ」という言葉は、資本主義——平たく言えば「お金儲け」——と結びつけて理解されがちだ。だが、実際には「自分の人生を自分らしく切り拓いていくために不可欠な力」(生井秀一『13歳からのアントレプレナーシップ』)くらいの広い意味合いを持つ概念だ。
思えば、「アントレプレナーシップ」はYBAを語るキーワードとされる。YBAは「ヤング・ブリティシュ・アーティスト」の略で、1990年代のイギリス美術に革新をもたらした一群の若手作家を指す。今年東京と京都で開催された「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s英国アート」展のキュレーターを務めたヘレン・リトルは、ぼくのインタビューに応じて、YBA作家の本質は「自分でイニシアティブをとる、自主企画・自主宣伝の力」であったと語っている。こうした意味でも、アントレプレナーシップという言葉が広範な含意を持つことがわかるだろう。
SE研のメンバーとして、ぼくはエストニアに派遣されたわけだ。その背景には、1990年代以降のエストニアの政策が関係している。ソ連崩壊直前の1991年、エストニアは独立を回復し、国際連合に加盟。独立後のエストニアはIT技術に力を入れた政策を推進し、いまではほぼすべての行政手続きがオンライン申請に対応している。1990年代には(かつて?)IT大国であった日本との行政レベルでの交流も盛んだったらしく、主要レストランに日本語メニューがあるのもその時期の名残ではないかと思う。タリンでも、最先端のIT技術を活用したスマートシティ構想が進められている。その中心的な役割を担うのがエストニアアントレプレナーシップ応用科学大学(EUAS)である。
この大学が今回の訪問先だ。EUASでは、教授陣からスマートシティ構想についてのプレゼンテーションを受けた。ぼくの知識不足ゆえに正直なところ内容はよく理解できなかったが、すでにIT技術がエストニアの新しい文化の重要な一部を構成していることは十分にわかった。ポール・ギルロイら多くの文化研究者が論じてきたように、文化には抵抗の力がそなわっている。1980年代後半、エストニアではソ連支配への抵抗を示すために人々が集まって民謡などを歌ったという。この運動は人々の民族意識を喚起し、独立への機運を高めた。この出来事は「歌う革命」と呼ばれている。

エストニアには大小様々な美術館や博物館がいたるところにある。滞在中に2日間の自由時間をもらい、リサーチのためにタリンとタルトゥ(後述)の文化施設を見学した。上記の「歌う革命」も現地の博物館で知った。旅はいつも、世界には自分の知らないことが山ほどあるという当たり前の事実を教えてくれる。とりわけ美術館や博物館などの文化施設は、そうした知識の宝庫だ。エストニアにたくさんの文化施設があるのは、その長い被支配の歴史と深くかかわっている。文化研究、とくにミュージアム・スタディーズの議論が明らかにしているように、美術館や博物館はその土地に根ざす民族的アイデンティティを打ち立てることに重要な役割を果たす。
エストニアで会議や授業見学を終え、2日間の自由時間では1日目にタリンの美術館や博物館をタクシーで——余談だが、エストニアではタクシーの配車にBoltというアプリが一般的だ——めぐった。なかでも印象的だったのが「占領博物館(The Vabamu Museum of Occupations and Freedom)」。文字通り、エストニアの被占領にまつわる歴史が様々な品々や資料と一緒に解説されている。ぼくが訪れたときには、エストニア系移民にまつわる特別展が開催されていた。戦争やそれに伴う支配は必然的に数多くの強いられた移動を生む。事実、1940年にソ連、翌1941年にドイツがエストニアを侵攻して占領したことにより、3万人超のエストニア人がスウェーデンなどに亡命したとされる。
占領博物館以外にも、エストニアには自民族の(しばしば苦難の)歴史を正しく知るための文化施設がたくさんある。ただし、こうした施設がけっして排他的なエスノセントリズム(自民族中心主義)の視点から構成されているわけではないことは強調したい。ぼくが宿泊していたホテルのすぐ近くにロシア大使館があるのだが、その正門前にはロシアのウクライナ侵攻に対する抗議のバナーがズラリと並んでいた。こうした連帯の表明も、エストニアの歴史に起因するところが大きいのだろう。
また、言語はそれぞれの民族にとって重要な要素だ。日本を含め、かつての帝国主義国家は支配した他民族に固有の言語を奪ってきた。エストニア語について、現地でコーディネーターを務めてくれた日本人の方(エストニア在住歴15年!)から興味深い話をうかがった。エストニアでは、びっくりするほど英語が通じる。EUASの教職員はもちろん、普段の生活でも英語で支障がない。とくに若い世代では英語が浸透しているそうだ。そのため、エストニア語を継承するための努力もなされ始めているとのこと。小中学校などで、エストニア語を学ぶための授業が増えているらしい。
エストニア滞在最終日には、第2の都市であるタルトゥを訪れた。特急電車に2時間ほど乗っているとタルトゥに到着。この都市には多くの大学があり、学術都市として知られているという。道中、いくつか美術館を見学して、最大の目的地であるエストニア国立博物館に向かった。駅から徒歩30分くらい、かなり牧歌的な光景が広がる土地に建つ。この博物館は田根剛らが率いるグループが設計し、負の遺産といえる旧軍用滑走路を大胆に取り入れたデザインで話題となった。国立博物館の展示では、エストニアの歴史を伝えるための工夫が随所になされていた。ときに参加型の仕掛けも用意され、外国から来た人や子供にも入りやすい展示であった。


このエッセイを書き終わった日、後期の授業が始まった(初日は台風のために休講になったが)。今年もあまりのんびりする時間がなかった。来年は(あまり好きな言葉じゃないけど)ワーク・ライフ・バランスを考えたい。毎年同じことを言っている気がするけど。

山本浩貴
山本浩貴