公開日:2022年12月29日

【2022年】ライター4人が語るベスト展覧会は? 【座談会】アート界ゆく年くる年(前編)

アートライターの浦島茂世、島貫泰介、杉原環樹、新原なりかを招き、2022年のアート界を振り返る座談会を開催。4時間にわたる白熱した会話のなかで、まずはそれぞれに、今年見てよかった展覧会を複数紹介してもらった。(構成:菊地七海)

それぞれのマイベスト展覧会+作品

▶︎島貫泰介が選ぶ3点

──昨年に続き、今年も年末アートライター座談会を行います。まずは2022年に見てよかったと思う展覧会を、おひとりずつ教えてください。

 島貫 最初から展覧会ではないものを挙げますが、劇団タルオルムによる『マダン劇 ウトロ』(5月1日)。同作は今年4月末に宇治市内に開館したウトロ平和祈念館(京都)のオープン企画として再演された野外劇です。太平洋戦争中から在日コリアンが多く住む土地であるウトロ地区の歴史を伝えることを目的とするウトロ平和祈念館は、開館前の2021年8月、収蔵予定だった資料が保存されていた民家などが差別主義者によって放火され焼失する事件を経験しているのですが、この野外劇は、その放火現場の前にある広場で上演されました。『マダン劇 ウトロ』は、タイトルが示しているように、ウトロ地区の歴史、そこで暮らす家族のファミリーヒストリーを描く作品で2019年に初演されています。今回の上演では、新たに放火事件の内容が加わっています。

劇団タルオルム『マダン劇 ウトロ』 提供:劇団タルオルム

一般的に、近代的な舞台芸術は劇場やブラックボックスといった、日常から切り離された自律した空間で上演されます。美術におけるホワイトキューブの役割とほぼ同じもので「作品は作品としてのみ受容されるべき」というドグマを基礎にしており、それによって表現と鑑賞の精度を極限的に高めることができるわけですが、そのある種の「聖別」によって土地や歴史や共同体が有する固有性が後退してしまう問題がつねにつきまといます。その意味で、作品が語ろうとする歴史や事件がまさにあった/ある場所で上演された『マダン劇 ウトロ』を観る経験は、非常に稀なものでした。

在日コリアンへの差別や放火事件が示す暴力などの重たい題材を扱いつつも、それがゆえの明るさというかパワーにそもそも満ちた作品でもあり、またそこに平和祈念館のオープンを祝う演者と観客の気持ち、前向きな空気が混ざり合う上演になっていたのが印象的でした。その場にいるほとんどの人がウトロ地区に関わっているというのも大きくて、穏やかさや安心感に包まれて観ることができました。

国立ハンセン病資料館(東京)の「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」(3月12日〜8月31日)も印象深い展覧会でした。Tokyo Art Beatで詳しいレポートを書きましたが、ハンセン病患者の療養所で作られていた道具とその歴史を紹介する展覧会です。展示されている義足や義肢、スプーンやフォークなどの生活の道具が、入所者自身による自作から始まり、戦後になると専門の義肢工との共同制作のプロセスになっていく変遷を一望できるようになっています。

「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」展の会場風景より。写真右は多磨全生園の大津きんさんのリクエストで作られたゼブラ柄の義足 撮影:編集部

入所しているハンセン病患者・回復者たちはそれぞれに障がいの度合いやかたちがまったく違うので、かれらが使う道具もすべて個人専用なんですね。そこには個人から発した創造性がギュッと凝縮されていて、それは「作品」と呼んでもいいような固有性を持っているのですが、おそらく僕らが日常的に「アートの作品」として理解しているものよりもその人自身や生活の場や歴史と強い結びつきを持っていて、安易に「作品」とカテゴライズしてしまう自分への疑念が浮かびます。こういった感覚を呼び覚ます点で、『マダン劇 ウトロ』のあり方とも共通する展覧会です。

スプーン[多磨全生園] 年不詳 提供:国立ハンセン病資料館 塩ビ管(塩化ビニル製のパイプ)を食器の自助具として使うことに違和感を持った義肢装具士が、カラフルなアクリル製のホルダーをつけたもの

杉原 僕も見ました。展示を回ると、「ユニバーサルデザイン」とは何だろうという気持ちになりますよね。スプーンとフォークが一列に並んでいても、柄の長さや向きが全部違う。標準的なスプーンとは、果たして誰にとっての「標準」なのか? あれはすごく印象的でした。

島貫 「デザインや美術作品は誰のためのものか? 誰がつくるものなのか?」という、批評性を持った問いを全方位的に示す展覧会でよかったですよね。

いっぽう、「美術」の領域で個人的に今年ベストだったのが、福岡県立美術館で開催された「牛島智子 2重らせんはからまない」展(10月15〜12月4日)です。僕が住んでいる別府で、たまたま1日限りの展覧会「作家がみた別府 牛島智子」(11月18日、企画は飯島剛哉)を開催していたのが縁になって見ることのできた展覧会で、1958年に生まれて現在に至るまでの活動(=人生)をクロニクル的に構成した内容です。回顧する展覧会ではあるのですが、牛島さんが主要なモチーフにしている多角形が三角形→四角形→五角形と、年数と連動してプリズムのように増加・増殖していく美的な構造を持っていて、自身の生活や人生と美術活動が結晶のように分かち難く結びついてきたことを印象づけています。

「牛島智子 2重らせんはからまない」展 撮影:長野聡史 

牛島さんは、自身の作るものを「作物作品」と「作品作品」に分けて認識していて、その分類や境界は第三者からすると明確ではないのですが、彼女がふだんやっている畑仕事のなかで育て・収穫している農作物と同じようなものとして美術作品を位置付けているのが前者で、たしかに繁茂する植物のようなイメージが多く登場しています。

生活と美術の境界を曖昧にするものという意味では、前に挙げたふたつとも共通するのですが、『マダン劇 ウトロ』や「生活のデザイン展」が、「生活や社会が、芸術を包摂していく」方向性を持つとすれば、牛島さんの場合は最終的には「芸術が、生活や社会を包摂していく」ものとして自分には理解できました。そういった概念モデルは現代美術に関わっていると頻繁に頭をよぎる思考ですが、それを血肉の通ったものとして作品や活動に反映させていくには、長い時間と実践が必要です。Bゼミで岡﨑乾二郎さんらに師事し、80年代には東京の村松画廊、ヒルサイドギャラリーなどで発表し、90年代に故郷である福岡県八女市に拠点を移して、そして現在まで絶え間なく制作してきた牛島さんとその作品から学ぶことはとても多い。

たとえば90年代末からの活動に、地域での「行事」(での作品発表やワークショップ)という項目が増えてきて、2010年代には「展示」と「行事」の割合がほぼ拮抗していたりするのがめちゃくちゃ楽しい(参考:冊子『秋の種 2021→22:牛島智子 インスタレーション ミミズになる。記録集』)。

牛島さんの作品自体はキュートでファニーな側面が強いし、実際にそうだと思います。しかし、そこに絶え間ざる「美術(展示)」と「非-美術(行事)」の闘争のバトルフィールドが広がる風景を個人的に幻視しました(笑)。この数年で現代美術とはだいぶ違う領域に関心を向けている自分がいるのですが、それでも「美術のことをしていこう」「美術をしてもいいんだ」という励ましを得るような展覧会でした。

「牛島智子 2重らせんはからまない」展 撮影:長野聡史 

また、会場になっている福岡県立美術館が1985年開館の少し昔の作りの空間であることもプラスに働いていました。設備面で物足りないところが多々あるはずですが、それが牛島さんの空間への創造的な介入を促す、許す側面があって、まるで耕しがいのある畑のような展示でした。

最後にもうふたつ加えます。「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022」(10月1日〜23日)と「YPAM 横浜国際舞台芸術ミーティング 2022」(12月1日〜18日)も印象に残りました。パンデミックを経て、海外作家も含めてほぼ構想どおりの上演・企画ができるようになったことが感慨深いですし、前者ではイランやタイおよびミャンマーのアーティストが来日し、現在進行形の政治・社会とリンクする作品を発表するのを見て、国際芸術祭というのは、作品を通して異なる国・地域の関心が結びつく場であったことを思い出しました。

アーザーデ・シャーミーリー『Voicelessness —声なき声』(2022) 撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT
ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』(2022) 撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT

▶︎杉原環樹が選ぶ3点

杉原 僕はまず、高松市美術館から静岡県立美術館にリレーした「みる誕生 鴻池朋子展」(11月3日〜24年1月9日、同年に青森県立美術館へリレー予定)。『美術手帖』の鴻池特集に関わったこともあり、高松に2回、静岡に2回ずつ通い、関連イベントにも多く参加しました。

静岡県立美術館「みる誕生 鴻池朋子展」より、鴻池朋子《皮トンビ》(2022)裏山でのインスタレーション
静岡県立美術館「みる誕生 鴻池朋子展」より、鴻池朋子《柱周りインスタレーション》(2022)  提供:静岡県立美術館

同展は「鴻池朋子展」ですが、実際は鴻池作品は一部で、それ以外の作者の作品が大量に展示されていました。また、美術館では「異物」とされる要素が多くあったり、いろいろな身体観をもつ人との協働の要素もあった。とにかく無数の切り口があるのですが、鴻池さんはこうした要素を自身の個展にたくさん持ち込むことで、硬くなった「美術館」の制度を少し手前から考えたり、空気を入れ替えたり、暗黙の了解を揺さぶったりしようしているように感じました。

たとえば、同展では多くの作品を手で触れて鑑賞することができました。会期中には「みる誕生会」という、目の見えない人・見えにくい人と、見える人がペアで行う鑑賞会もあり、僕も参加しましたが、目を閉じたことで絵がより「みえた」のには驚きました。通常美術館は視覚中心の空間ですが、手で触れて体調をみる「触診」など、「みる」という行為には本来いろんなかたちがある。同展では、そうした人それぞれの「みる」のあり方を考えさせられました。

美術館の「外」にある要素の導入で象徴的なのは、美術館が所蔵する名品の横に置かれていた様々な動物の糞の模型です。動物の糞なんて、作品を大切に保存・管理する美術館にあってはならない存在ですが、あらためて土に還っていく自然物と並べられると、変わることを許されない美術作品の「不自然さ」も感じました。

高松市美術館「みる誕生 鴻池朋子展」より 撮影:編集部

ほかにも、美術館からの「逃走ルート」として、高松では瀬戸内海の大島、静岡では美術館の裏山に観客を向かわせたり、熊本県にある菊池恵楓園というハンセン病療養所の絵画クラブ「金陽会」のメンバーの絵が膨大に展示されていたり、「美術館とは何か?」「作品とは何か?」とあらためて考えさせるきっかけに溢れた展示でした。

静岡県立美術館「みる誕生 鴻池朋子展」より、国立療養所 菊池恵楓園 絵画クラブ「金陽会」 絵画作品 、静岡県立美術館コレクション、鴻池朋子《振り子 アースベイビー 初号機》(2020)ほか 提供:静岡県立美術館

──高松の展示を見たのですが(レポート)、鴻池さんが本気で美術を取り巻く制度や「ものを作るとはどういうことか」ということに挑んでいるのが伝わってきて、ある種の厳しさや恐れも感じましたね。美術や展覧会との向き合いかたを根本的に考え直させるパワーがあって、まるで消化に時間がかかる生肉を渡されたような。

浦島 2019年にハンセン病資料館でやった金陽会の展覧会(「キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展」)を見て衝撃を受けたのを覚えています。鴻池さんの展覧会ということで行った人が、なんの予備知識もなくあの作品群を見るっていうのはすごいことだなと思いますね。

杉原 そうですね。金陽会の絵は、従来入所者の方が亡くなると処分されることも多かったそうです。それが、高松から静岡、青森へとキャラバンのように旅をしていく。「みる誕生」展にも携わるキュレーターの藏座江美さんは、金陽会の絵の保存活動をしている方なのですが、高松の展示室に飾られたその絵画群を見て、「みんなちょっと緊張気味ですね(笑)」と嬉しそうだったのが印象的でした。

次に、興望館(東京)で開催された「共に在るところから/With People, Not For People」展(11月5〜27日)。興望館というのは、学童クラブやこども園、高齢者向けプログラムなどを展開する墨田区の福祉施設です。同展は、この興望館に、キュレーターの青木彬さんがディレクターを務める墨田区の「ファンタジア!ファンタジア!―生き方がかたちになったまち―」(通称ファンファン)というアートプロジェクトや、アーティストの碓井ゆいさんが2021年から継続的に関わり、ワークショップなどを行ってきた成果展のような内容でした。

この展示のキーワードは「セツルメント」です。これは19世紀のイギリスで生まれた社会福祉運動で、産業革命後、社会の変化のなかで困窮する人々が暮らす貧困地域に学生や宗教家らが移り住み(settlementは「住み込む」の意味です)、住人の心身の健康をサポートしていた活動やその施設のこと。日本でも関東大震災を機に数が増え、表現者が子どもに鉛筆画を教えるなどしていたようです。じつは興望館は、1919年にセツルメント施設として設立された場所なんですね。

「共に在るところから/With People, Not For People」展 撮影:加藤甫 主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、「隅田川 森羅万象 墨に夢」実行委員会、一般社団法人藝と

一般に、美術史は美術作品や展覧会の歴史を軸に記述されますが、青木さんは美術と福祉の関係を調べるなかで、じつはセツルメントのように美術館の「外」の地域社会で展開されてきたかたちに残りづらい美術家の活動があることに関心を持ち、そこから興望館と出会ったそうです。一方碓井さんは、家の中のタオルや石鹸の交換のような、他者から意識されづらい「シャドウワーク」を扱うシリーズなど、育児・家事・エッセンシャルワークといった不可視化しやすい労働に目を向けてきた作家です。

「共に在るところから/With People, Not For People」展 撮影:加藤甫 主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、「隅田川 森羅万象 墨に夢」実行委員会、一般社団法人藝と

展覧会では、碓井さんが興望館に残された膨大な資料を丹念に参照しながら書いた、昭和の興望館で働く架空の女性の日誌や、資料写真を元に施設関係者らと協働制作した刺繍作品が展示されていました。その日誌を書いている女性は、美術学校の刺繍科を卒業した設定で、セツルメント職員としての業務のなかで、学生時代に熱を注いだ「芸術」や「作品づくり」と、目の前の子どもの世話や主婦たちとの編み物との、つながりや違いに思いを巡らせます。面白いのは、それが、まさにケアの現場と関わるなかで碓井さん自身が美術家として抱える葛藤のようにみえること。福祉施設への美術関係者の介入に厳しい見方もあるなか、碓井さんたちの実践はその領域を誠実に開拓しようとするもので、また、美術史を福祉の視点からとらえ直す試みにも可能性を感じました。

「共に在るところから/With People, Not For People」展 撮影:加藤甫 主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、「隅田川 森羅万象 墨に夢」実行委員会、一般社団法人藝と

そして3つめは、展覧会というかひとつの作品なんですけど、谷中にできたスペース「脱衣所」のオープニングイベント「憑在実験 vol.1」(8月18〜21日)で見た、筒さんの《Untitled(幽閉されている)》です。その日、僕は何も知らずにイベントを訪れたのですが、普通のアパートの一室の会場に入ると、ひとり、机に向かって何かをぶつぶつ言っている人がいたんですね。最初は「変な人がいる」くらいに思ったのですが、よく見るとその人の周囲に誰かの顔写真が貼られていたり、部屋の各所のスピーカーから誰かの声が聞こえてきて、机に向かうその人物はどうやらこのスピーカーから聞こえる声の主と話しているらしいことがわかってきました。

筒「Untitled」(幽閉されている) 撮影:板倉勇人

それでもはじめは「リモート会議かな」と思っていたのですが、あとから知ったのは、机に向かうその人物が筒さん本人で、スピーカーから聞こえるのは彼がかつて一緒に暮らしていた3人の友人の声、しかもそのうちのひとりはすでに亡くられていて、もうひとりはこのイベントの開催当時ミャンマーで拘束中だったドキュメンタリー映像作家の久保田徹さんであることでした。

筒さんは、丁寧な取材を通して特定の誰かの生を演じ直す「ドキュメンタリーアクティング」という手法で活動する作家で、スピーカーから流れていたのは、彼らがかつて一緒に生活していたとき、レコーダーの切り忘れでたまたま録音された同居人4名の日常会話だったんです。筒さんはその音源を流して、いまは話すことのできないその友人たちと、当時の自分の発言や身振りを正確に演じ直すことで、話していたんですね。この構造に気づいたとき、本当に驚きました。

その会話は、「風呂沸いた?」「もう寝るわ〜」という本当に些細なものなのですが、それが弔いにも、遠くの友人への祈りにもなっている。そして、彼らが、かつてたしかにそこにいたという強烈なリアリティが立ち上がっていた。今年といえば海外で起こった戦争ですが、それとは全然種類は異なるものの、やはり海外で起きた拘束事件が、半ば当事者である筒さんの友人の帰りを待つ背中によってグッと目の前に近づいた。そんな意味でも強く印象に残りました。

筒「Untitled」(幽閉されている) 撮影:板倉勇人

▶︎浦島茂世が選ぶ3点

浦島 私が今回選んだ展覧会のキーワードは、揺さぶりです。まずは松濤美術館の「装いの力―異性装の日本史」展(9月3日〜10月30日)。その名の通り、男性が女性の格好を、女性が男性の格好をするっていうテーマの展覧会で、遡るとヤマトタケルノミコトが女装して油断させ、クマソタケルを暗殺するというところから始まって、稚児さんや歌舞伎を経て、現代に至るまでを俯瞰するという内容でした。

松濤美術館は2階建てなのですが、1階で江戸時代までの比較的おおらかだった時代をまとめ、2階で明治以降、西洋の概念が入ってくることによってタブーが増えていくなかからどう逃れていくのかを見ていき、現代に入ったところでダムタイプやドラァグクイーンに至る、という構成でした。ふたつの価値観のせめぎ合いみたいなものだったり、それをどう美術が描いていったのかを追うことで価値観が揺さぶられ、非常におもしろかった。どうやらTikTok経由で話題になっているらしく、コスプレイヤーを含む若い人が多くて驚きました。

「装いの力―異性装の日本史」展より、三代・山川永徳斎《日本武尊》(昭和時代初期・20世紀、個人蔵) 撮影:編集部
「装いの力―異性装の日本史」展より 撮影:編集部

杉原 西洋的な価値観の到来を軸にして、1階と2階が対比的に描かれていたこと、いまお話を聞いて初めてはっきり認識しました。たしかに。

浦島 松濤美術館は空間を上手に使っていて、2階スタートのときもあるし、上がるのと下がるのとで趣を変えていますよね。東京ステーションギャラリーもそうですが、この頃は美術館が自分の建物の特性を考えたうえで密に展示を考えているなという実感があります。

それから「ゲルハルト・リヒター展」(東京国立近代美術館、6月7日〜10月2日)は、「見る」とは何か?を問いかけてくる展示でした。広告写真をぼんやりぼかして描いた作品しかり、スキージの作品しかり、どこをどう見てもいいのか、鑑賞している自分は何を見て何を考えるべきかが問われて、たじろいだというか。

「ゲルハルト・リヒター展」より、《ビルケナウ》(2014) © Gerhard Richter 2022(07062022) 撮影:編集部

最初は「きれいだな」と思っても、「いや、きれいでいいのか?」っていう禅問答をさせられるような作品が大量に置いてある。著名人の方と同展を同行する機会があったのですが、スキージ(へら)を用いて描かれた作品を見てその方が、学芸員さんに「これ、やめどきはいつなんですか?」って聞いていたのを思い出しました。リヒターにはわかるらしいんですね。ちなみにその人がは大竹伸朗展を見に行った模様が先日テレビで放送されていて、そのときも「大竹さん、この建物みたいな作品、いつがやめどきなんですか?」って聞いていました。

一同 (笑)。

浦島 でも確かに言われてみれば、やめどきってすごいなぁって。それ以降、抽象画などを見るとき、この人はどうしてここでやめて、この完成形に至ったんだろうって考えるようになっちゃって。そうするとまた見え方が変わってきた。ひとつの展覧会をじっくり見て、滞在時間が伸びてしまってしんどいです。

「ゲルハルト・リヒター展」より、右は《ストリップ》(2013~2016) © Gerhard Richter 2022(07062022) 撮影:編集部

そして最後はアーティゾン美術館の「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」展(4月29〜7月10日)ですね。これは柴田敏雄さんと鈴木理策さんの写真作品と、石橋財団が持っている収蔵品を組み合わせて並べるという展覧会。柴田さんと鈴木さんの組み合わせだけでもおもしろいのに、そこに円空やジャコメッティが置かれていて、なぜここにその作品が?って、また見え方が変わってきました。アーティゾンは学生が無料というのもあるかもしれないんですが、この展覧会も、若い人がすごく多かったです。

「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」より 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館
「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」より 撮影:木奥惠三 提供:アーティゾン美術館

杉原 やっぱりTikTokですか?

浦島 そうですね、あとはInstagram。アーティゾンのコインロッカーはこのごろInstagramの映えメッカなんですよ。なんかPerfumeっぽいの。

一同 へえー!(笑)

島貫 浦島さんの挙げてくださった展覧会って、どれも「見ること」あるいは部分的に「見られること」の問題を扱ってますよね。来年度の期待の展覧会に「さいたま国際芸術祭2023」を挙げていましたが、同芸術祭のディレクターを務める目[mé]も、一貫して視覚のことを作品の題材にしている(後編)。

TikTokでバズって展覧会に人が殺到する現象に顕著ですが、すごく視覚の強い時代なんだなと思いました。見ることは美術受容の軸ではあるのだけれど、聴覚や触覚や味覚、あるいはマスク生活でだいぶ衰えてしまったであろう嗅覚も重要なので、視覚情報への関心のみが肥大化していることに個人的には危機感を覚えます。視覚全盛の時代だからこそ、そうでないものを示す企画や作品に光が当たることを期待しています。

▶︎新原なりかが選ぶ3点

新原 「ボイス+パレルモ」展(2021年10月12日〜22年1月16日)は大阪の国立国際美術館で見たのですが、この展覧会があったからなのか、今年インタビューの仕事でヨーゼフ・ボイスの名前が出てくることが多かった気がします。あとはたとえば、これは昨年の本ですけれど、小田原のどかさんの著書『近代を彫刻/超克する』(2021、講談社)を筆頭に、彫刻や公共といったキーワードをよく聞いたなという印象があって。いま社会彫刻などが、改めて新鮮なものとして人をとらえているのかもしれないですね。

「ボイス+パレルモ」展会場風景 提供:国立国際美術館

次に、「第3回PATinKyoto京都版画トリエンナーレ2022」(京都市京セラ美術館、4月12日〜5月8日)。現代の版画表現の可能性を探るべく選出された、19組の作家が参加していたのですが、様式としてはまったく版画ではない作品も混ざっていて。概念としての「版画」というスタンスが強くて、驚きました。関西では、京都精華大学の版画コースがすごくおもしろいと言うギャラリストが結構いて、実際この版画トリエンナーレにも、そこ出身の人が1/4くらい参加していました。

「第3回PATinKyoto京都版画トリエンナーレ2022」より、澤田華の展示 提供:第3回PATinKyoto京都版画トリエンナーレ2022

杉原 どんなコースなんですか?

新原 また聞きなのですが、木版やシルクスクリーンといった技術よりも、版画性とは何か?を問い、複製することや版というものを概念的にとらえるみたいなところから教育を始めるらしくて。

同展に出品されていておもしろいなと思った澤田華さんも精華大出身でした。出品されていたのは、本の中で見つけた写真に写り込んだ得体の知れないものを極端に拡大して、その正体を突き詰めていくというインスタレーション作品です。写真に写り込んでいる文字情報を調べたり、撮影された場所のGoogleストリートビューを参照したり、連想される画像をインターネット上から拾い集めてみたり、粘土で立体化してみたりと、偏執的とも言えるような手つきでイメージの断片に没頭していくさまが作品となっています。じつは以前、似た着想でつくられた澤田さんの作品を別の展覧会でも見たことがあって、そのときは版画という扱いではなかったんです。同じ作家の同じ作品が「版画」という枠組みを与えられるだけで思考も変わってくるし、そこがすごくおもしろかった。

「第3回PATinKyoto京都版画トリエンナーレ2022」より、澤田華の展示 撮影:濱田弘明 提供:第3回PATinKyoto京都版画トリエンナーレ2022

それから同じく出品者の森末由美子さんにインタビューをさせてもらったのですが、彼女は元々版画出身で、現在は刺繍やレース編みといった手芸の要素が強い作品を制作されているんですけれど、手芸の規則性のある単純作業が、自分と行為のあいだのワンクッションになっているという表現をされていて。その間接性が版画的だから、自分のルーツは版画なんだとおっしゃっていました。手芸って女性というジェンダーと結び付けられやすいから、美術に取り入れていくときって、男性中心の美術界みたいなものに対するカウンター的な意味合いをのせることも多いじゃないですか。でも森末さんは、「そういうことは全然考えていない」とおっしゃって、それが私からすると非常に新鮮だったんです。手芸という手法は、何かと何かをつなぎあわせる要素が多いから気に入っているんだって。私が作品を見るときって、何かしら社会的なイシューとか、美術史的な文脈を探す目でしか見ていなかったんだなとすごくはっとしました。

「第3回PATinKyoto京都版画トリエンナーレ2022」より、森末由美子の展示 撮影:濱田弘明 提供:第3回PATinKyoto京都版画トリエンナーレ2022

最後に、「すべて未知の世界へーGUTAI 分化と統合」展(10月22日〜2023年1月9日)。国立国際美術館と、その隣に今年できた大阪中之島美術館の共同企画です。これは「よかった!」というよりも、考えることが多かった展覧会です。「分化と統合」というテーマのもと、中之島のほうでは「分化」として具体のバラバラさを、国立国際のほうでは「統合」として、それでも共通するものは何か?を見せるという構成なのですが、同じ作家の同シリーズ作品が館によって別の文脈で展示されていたり、キャプションのフォーマットも統一されていなかったりして、どちらかといえば、それぞれの館で違う展示をやっているという印象で。そこにはいろいろな思惑があると思うのですが、私個人としては、作品って結局、展示方法で見られかたが決まるんだなということを強く意識させられました。

「すべて未知の世界へーGUTAI 分化と統合」(大阪中之島美術館)の会場風景 撮影:編集部

 ──中之島はホワイトキューブを活かして大型作品も含めたベスト盤的なセレクトになっていて、国立国際は「絵画」の拡張を軸に、チャレンジングに具体の再編成を試みていましたね。わかりやすい説明を避けるというスタンスだったのか、作品解説や豊富なコレクションのある資料の展示、「具体美術宣言」を紹介するパネルなど、一般的に考えたらありそうなものが展示会場にはなかった。既定路線の鑑賞を回避した見せかただったと思います。TABでも中嶋泉さんに同展のレビューを書いていただいたのですが、「知名度や時系列による具体のヒエラルキーが取り崩され、あまり知られていなかったアーティストや作品にも分け隔てのない光が当てられていた」というのはその通りだなと思いました。

 杉原 まだ訪れられていないのですが、その展示方法で、初めて具体の作品を見る人にもその活動の革新性や面白さは伝わるんですかね......?

 ──うーん、具体のことをまったく知らないと、作家数も多いし、よくわからないまま終わってしまう部分も大きいのではないかと懸念も抱きました。個人的には、金山明さんによる無数の線が描かれた絵画はラジコンカーを使って制作していることとか、嶋本昭三さんの「大砲絵具」、村上三郎さんの「紙破り」みたいな破天荒な作品があったことは、具体のおもしろポイントとして馴染みのない人に魅力的に伝えてほしいなと思ったり。図録には詳細が記載されてはいるのですが。具体のように歴史があるグループの展覧会だと、その作品を何度も見てきたという人も、今回が初めてだという人も美術館に来る。どちらにより照準を合わせるかで見せ方のアプローチも変わってくるので、難しいですよね。

 新原 作品の解説のようなかたちで壁に貼られたテキストが、よくある客観的な作品説明ではなく、インタビューなどから引用された、作家本人が語った言葉だったんですよね。さきほど、昨今は視覚偏重の潮流があるという話がありましたけれど、それに伴って文字情報を読むことのハードルが上がっている状況にもあると思います。本人の言葉を載せたキャプションは、好意的にとらえれば、画一的な説明よりも鑑賞者の興味を惹きやすく読まれやすいのでは?とも思いました。私個人の好みでもあるのですが。

「すべて未知の世界へーGUTAI 分化と統合」(国立国際美術館)の会場風景 撮影:編集部
上図奥にある、吉原治良《無題》(1963)のキャプション 撮影:編集部

展覧会でのキャプションのあり方

新原 それで言うと、最近キャプションのあり方が結構変わってきていませんか? たとえば「これは~~を表しているように見えませんか?」といった、何かわかりやすい手がかりを与えるキャプションがつくことが多くなったように感じていて。個人的には、それが逆に見方を規定して狭めている感じがするんです。最近一般化してきているジュニアガイドにも、そのような傾向を感じることがあります。もちろん、そのようなキャプションやガイドがあることによって鑑賞体験を深めることができる例もあることはわかるのですが。

 杉原 少し話が違うかもしれませんが、僕が今年キャプションに関して気になったのは「あいち2022」(7月30日〜10月10日)です。騒動になった「あいちトリエンナーレ2019」と、今回とでは、キャプションの書き方がかなり違ったように見えたんですね。

2019年のキャプションは、見ればわかる作品の具体的な特徴を取り上げ、それを多くの人が関心を持てる社会問題と紐づけて語るような解説で、文字数は非常にコンパクトでした。当時、そのとても読みやすい書き方がすごいなと思って気になって、キャプションを担当されたミュージアム・エデュケーターの会田大也さんにインタビューしたさい質問したのですが、背景には2019年の芸術監督・津田大介さんの、「キュレーターなど専門家が書いた解説は専門外の自分からすればよくわからず、初心者フレンドリーではない。社会に開かれた芸術祭ならば、普段美術に触れない鑑賞者も理解できるようにした方がいい」というディレクションがあったと。そこで、誰もが共有できる目の前の「fact」から、解釈という高次の「truth」を引き出す、対話型鑑賞の方法論をベースにキャプションを書いたそうです。

これに対して今年は、各作家の過去に参加した展覧会や、住んでいる地域に固有の政治的・社会的背景など、作り手にまつわる文脈を結構長文でまとめたテキストになっていました。会田さんは今年もラーニングのキュレーターなので、この解説の形式はおそらく意図的で、2019で削ぎ落としたものをあえて戻すような選択が面白いなと感じたんですね。

「あいちトリエンナーレ2019」のキャプション例 撮影:島貫泰介
「あいち2022」キャプション例 撮影:編集部

 新原 なぜなんでしょうね。初心者フレンドリーでない言葉が、普段美術に触れない鑑賞者を閉め出してしまうという感覚はわかります。最近はそこへの問題意識っていうのは広がっているなと思いますね。ただ、先ほど話した、わかりやすすぎることの弊害とのせめぎあいは難しいところですが。本当に美術に関する言葉を読み慣れていないと理解できない言葉で書かれているものはすごく多くて、それは必ずしも専門用語が多いというだけではなく、普段から使われるような言葉にも美術の文脈ならではの意味合いが乗っかっていたりもする。

浦島 うん。何言っているのかよくわからないもの多いですよね。

杉原 「あいち2022」は、2019よりもさらに作家の多様性や地域性に重きを置いたディレクションだったと思うので、「読みやすさ」よりもそれを丁寧に紹介することを優先しようという判断なのかもしれないですね。2019と2022、どちらが良い悪いではないですが、キャプションや解説は、展覧会の運営側が「鑑賞」をどういうものだと捉えているかが如実に現れるポイントなので、この対比は興味深かったんです。

島貫 「あいちトリエンナーレ2019」に関して言えば、津田さん自身が美術出身の人ではなく、ジャーナリズムや社会運動への意識が強い人だから、伝えること、トピックを具体化することへの志向があったことも一因なのかなと。それが全体的なキュレーションの軸にもおそらくなっていて、「2019」で起きた検閲や右派による脅迫といった問題を招いてしまった側面もあると思います。

美術における「作法」や「制度」から逸脱するものではあったけれど、津田さんの示した方向性によって得られた気づき、またそこから派生した諸々の問題意識によって作品を大きく展開していったアーティストもたくさんいますから、3年経ったいまも「2019」は重要な展覧会です。

杉原 僕もそう思います。

島貫 そういった背景もふまえて見ると、「あいち2022」は前回の禊(みそぎ)感がどうしても拭えないところがありました。地場産業との近さのアピールであるとか、デザインであるとか。英語では「Aichi Triennale」のままなのだから「あいちトリエンナーレ2022」も頑張って続けてほしかった。名前って本人にとっては呪縛になることもありますけど、アイデンティティと結びつく大切なものだと思うんですよね。「あいち2022」はグローバルサウスや工芸の固有性といった近年の言説トレンドを踏まえているのだから、なおさらアイデンティティに対する繊細さが欲しかったです。あるいはそれを踏まえて、あえてのふたつの名前なのか……。

キャプションに関しては個人的にあまり記憶に残っていないのですが、総合監督の片岡真実さんの国際性をふまえたキュレーションにおいては、作家の肩書きや経歴、政治的な文脈が入ってくるのは理解できます。

 ──片岡真実さんが芸術監督を務めた今回は、「世界各地でパラレルに発展した複数のモダニズムの系譜」というものが強く意識され、作家の出身地の歴史や民族的ルーツと結びついた作品が多かった。そうした背景を最低限説明することは作品理解のうえで不可欠だし、今展のモードがキャプションにも反映されていたと思いますね。

そういえば、キャプションのトーンが揃っていなくてちょっと混乱したのが「岡山芸術交流2022」でした。キュレーターら第三者が書いたであろう書いた解説と、作家自身が書いたと思われるステートメントのようなテキストが署名もなく混在していて、すごく短いものと長いものがあったり。

そのなかで、片山真理さんのテキストには作家自身の言葉が綴られていて、ご自身の身体や性・ジェンダーについて心ない発言や扱いをされたり、ラベリングされてきた経験が書かれていた。これは私の勝手な見方ですが、石川康晴総合プロデューサーが過去にセクシュアル・ハラスメント疑惑を報じられていて、その後の芸術祭の対応にいろいろと思うところのある私のような人間にとっては、芸術祭の内側にいるアーティストからのメッセージだと感じられて、心強く思いました。

「岡山芸術交流2022」より、片山真理「possession」シリーズの展示 撮影:編集部

後編へつづく

浦島茂世
うらしま・もよ 美術ライター。著書に『東京のちいさな美術館めぐり』『京都のちいさな美術館めぐり プレミアム』『企画展だけじゃもったいない 日本の美術館めぐり』(ともにG.B.)、『猫と藤田嗣治』(猫と藤田嗣治)など。

島貫泰介
しまぬき・たいすけ 美術ライター/編集者。1980年神奈川生まれ。京都・別府在住。『美術手帖』『CINRA.NET』などで執筆・編集・企画を行う。2020年夏にはコロナ禍以降の京都・関西のアート&カルチャーシーンを概観するウェブメディア『ソーシャルディスタンスアートマガジン かもべり』をスタートした。19年には捩子ぴじん(ダンサー)、三枝愛(美術家)とコレクティブリサーチグループを結成。21年よりチーム名を「禹歩(u-ho)」に変え、展示、上演、エディトリアルなど、多様なかたちでのリサーチとアウトプットを継続している。

杉原環樹
すぎはら・たまき ライター。1984年東京都生まれ。武蔵野美術大学大学院造形理論・美術史コース修了。出版社勤務を経て、美術系雑誌や書籍で構成・インタビュー・執筆を行なう。主な媒体に美術手帖、CINRA.NET、アーツカウンシル東京関連。artscapeで連載「もしもし、キュレーター?」の聞き手を担当中。関わった書籍に、平田オリザ+津田大介『ニッポンの芸術のゆくえ なぜ、アートは分断を生むのか?』(青幻社)、卯城竜太(Chim↑Pom)+松田修『公の時代』(朝日出版社)、森司監修『これからの文化を「10年単位」で語るために ー 東京アートポイント計画 2009-2018 ー』(アーツカウンシル東京)など。

新原なりか
にいはら・なりか ライター、編集者。1991年鹿児島県生まれ、京都大学総合人間学部卒。その後、香川(豊島)と東京を経て現在は大阪市在住。美術館スタッフ、ウェブ版「美術手帖」編集アシスタントなどを経てフリーランスに。インタビューを中心とした記事制作、企画・編集、ブックライティング、その他文章にまつわる様々な仕事を行う傍ら、エッセイや短歌の本の自主制作も行う。

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福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集。音楽誌や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より現職。