公開日:2023年12月22日

【年末特別企画】15人が選ぶ「2023年ベスト展覧会」。批評家やキュレーターらのセレクションをコメントとともにお届け

年末特別企画として「Tokyo Art Beat」は、批評家やキュレーター、研究者、アートライターら15人に依頼し今年もっとも印象に残った展覧会を3つ挙げてもらった。選んだ理由や今年注目したアート界の出来事についてのコメントと併せてお届する。(氏名は50音順、展覧会の順位はなし、画像は特記あるものを除きTokyo Art Beat撮影)

画像左上から時計回りに、「奈良美智: The Beginning Place ここから」展の会場風景より奈良美智《Midnight Tears》、広島市現代美術館「リニューアルオープン記念特別展 Before/After」の会場風景、「合田佐和子展 帰る途もつもりもない」の会場風景より合田佐和子《ロゼッタ・ギャラクシー(幾百万年の舟)》(部分)、足利市立美術館「顕神の夢 霊性の表現者」の会場風景(提供:足利市立美術館)

青木淳(建築家、京都市京セラ美術館館長)

(A)偶然は用意のあるところに 西澤徹夫TOTOギャラリー・間
(B)さいたま国際芸術祭2023 メイン会場(旧市民会館おおみや
(C)空間に、自然光だけで、日高理恵子の絵画を置く多摩美術大学八王子キャンパス・アートテークギャラリー)

展覧会とは作品を見る機会であり、美術館等の展示室はそこで作品を見るのに最良の空間としてつくられる。ほとんどの展覧会はその枠組のなかにあるし、もちろん、そういうなかですばらしい体験を与えてくれた展覧会は今年も数多くあった。とはいえ、この枠組にアプリオリに乗るのではなく、この枠組の存在自体に拘った、あるいは拘らざるをえなかったものもあり、そこから大きな刺激を受けた展覧会を3つ挙げたいと思う。

「偶然は用意のあるところに 西澤徹夫」は、建築展という、作品である実際の建築を展示できるわけではない、展覧会としてそもそも矛盾に満ちた企画へのすばらしい回答としてあった。表向きは、展覧会という作法に乗って素直に、模型、図面など実際の建築の代替物が展示されているように見える。しかし、そこから読み取れるのは、実際に建った建築の姿ではなく、それら展示物間に張られた緊密な関係である。そしてそれこそ氏の建築が目指しているものであるというどんでん返しに驚かされた。「さいたま国際芸術祭2023 メイン会場」は目[mé]のディレクションによるもので、私たちの世界が重層的であることに気づかされる体験そのものに展覧会を還元した。「空間に、自然光だけで、日高理恵子の絵画を置く」は、空間に巨大な余白を与え、床に座って、自然光だけで日高理恵子の作品を見せることで、氏の作品がフレームを超えて、外に溢れ出す経験を与える質を持ったものであることを明瞭に示すことに成功した。

さいたま国際芸術祭2023の会場風景

太下義之(文化政策研究者、同志社大学教授)

(A)顕神の夢-霊性の表現者 超越的なもののおとずれ足利市立美術館
(B)超老芸術展-遅咲きのトップランナー大暴走!(静岡・グランシップ6階展示ギャラリー)
(C)AMBIENT KYOTO(京都新聞ビル地下1階ほか)

私は文化政策を研究している立場から、全国様々な自治体の文化政策のアドバイザーを仰せつかっており、それらの出張の合間や事例の視察で、東京以外での各地の展覧会や芸術祭に足を運ぶ機会が多い。そのような背景で、あえて東京以外で開催された展覧会の中から、今年良かったと思うものを3つ選定した。

「顕神の夢」は、新興宗教の教祖の肉筆など、人知を超えた超越的な存在との関わりを源に創作する表現者に着目した展覧会。アートの概念自体を問い直すかのようなインパクト。なお、本展覧会は全国の公立5館が企画した巡回展。中小規模の美術館でも企画力と意欲があれば素晴らしい展覧会を実現できるという好事例。

アーツカウンシルしずおかでは、独自の創作を続ける高齢者による芸術表現を「超老芸術」と名づけ紹介している。「超老芸術」とは「アーツカウンシルしずおか」のチーフプログラム・ディレクターである櫛野展正氏の造語で、高齢になってから、または高齢になってもなお、精力的に表現活動をおこなっている人たちのこと。今回の「超老芸術展」はその中間報告的な展覧会。作品たちはみな、異様な多幸感に溢れている。

「AMBIENT KYOTO」は展覧会とコンサートで構成されるプロジェクト。中でも特筆すべきは、2023年3月に死去した坂本龍一氏(2017年に発表した楽曲)と、高谷史郎氏とのコラボレーション作品。京都新聞ビル地下1階にある広大な印刷工場跡の廃墟全体が巨大な音響・映像空間となる。「サイトスペシフィック」とは本展覧会のためにあるような言葉だと思う。

「AMBIENT KYOTO」の会場風景より、坂本龍一+高谷史郎《async - immersion 2023》 撮影:小倉ちあき

小川敦生(美術ジャーナリスト、多摩美術大学教授)

(A)試展―白州模写「アートキャンプ白州」とは何だったのか市原湖畔美術館
(B)広重おじさん図譜太田記念美術館
(C)虫めづる日本の人々サントリー美術館

Covod-19の感染症の扱いが2類から5類に移行した春以降、美術館は概ね通常の運営に戻った観があるが、一部で定着した日時指定制には、作品をまともに鑑賞できるという点で大きなメリットを感じる。いっぽうで、人数制限ばかりでなく戦争や円安などの影響によって2000円を超える入場料を設定する展覧会が増えてきた。「高すぎる」と、解せない気持ちが生じたという人も多いだろう。

(A)は、山梨県の白州という農村地域に1980年代に拠点を構えた舞踊家の田中泯のもとに、遠藤利克や原口典之、名和晃平など多くの現代美術家が出入りし、美術ムーヴメントが生まれた状況を、作品やドキュメントで回顧した企画展。図録が貴重な記録になっている。(B)は、《東海道五拾三次》シリーズなどの歌川広重の風景画に小さく描かれた男性たちを注視すると、じつは表情が豊かであることを発見させてくれる内容。革新的な視点の転換を促す企画展だと感じた。「おじさん」という言葉を肯定的に使っていることにも共感が持てる。(C)は、古来の日本人の虫好きを、美術作品で実証した企画展。美術館を虫関連の作品だけで埋めたのは圧巻だ。出品された絵画や工芸品を見ていて、虫をめでていたいにしえの人々の感情や風情がその場に満ちていることを実感した。いい展覧会は様々な意味で豊かさを感じさせてくれる。

「広重おじさん図譜」の会場風景より。安倍川餅をほおばるおじさんが小さく描かれた歌川広重《東海道五十三次之内 府中 あべ川遠景》 撮影:小川敦生

筆者による「虫めづる日本の人々」展のレビューはこちら

木村絵理子(キュレーター、弘前れんが倉庫美術館副館長兼学芸統括)

(A)リニューアルオープン記念特別展 Before/After広島市現代美術館
(B)Take it Home, for (__) Shall Not Repeat the Error.(東京・シノチカ
(C)奈良美智:The Beginning Place ここから青森県立美術館

過去3年間私たちの生活を一変させた新型コロナウイルスの脅威が過去のものとなり、人の移動がコロナ前のレベルを超えたとも言われるようになった今年、印象に残ったのは、ある土地や場との関係を掘り下げていく展覧会であった。

開館以来初めての大規模改修工事を終えて、春にリニューアルオープンした広島市現代美術館では、文字通りに開館から工事前までの美術館の歴史と、これから美術館が向かう方向性を示す展覧会として「Before/After」が開催された。同館では、改修工事に入る前の2019年にも「美術館の七燈」と題して開館以来30年の歴史を振り返る展覧会を開催したが、本展はその続編のように、改修工事の現場では廃棄されてしまいがちな古い什器やサイン看板などを活用しながら、美術館の歩みと時代の流れを重ね合わせつつ展開し、現代美術館という場所が、歴史の記録装置ではなく、歴史を生み出す側にあるという矜持を示すようでもあった。同じく広島でG7 広島サミット開催を機に 開催された後、東京の上野にあるビルの地下で巡回開催されたグループ展「Take it Home, for (__) Shall Not Repeat the Error.」は、広島出身のアーティスト半田颯哉がキュレーションしたものであった。展覧会タイトルは 広島の原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の古い英語訳に由来するもので、原爆に使用されたウラン採掘地であるコンゴ出身のシクステ・カキンダや、広島の被爆者3世であり、祖父が米国移民である伊東慧など、半田自身と同様、遠く間接的に原爆との関わりを持つ、一定の距離を持った当事者として展覧会に参加している。ある土地や歴史上の事象における当事者性について考えを巡らす真摯な展覧会であった。最後に触れるのは青森県立美術館で開催中の奈良美智の個展「The Beginning Place ここから」である。青森県弘前市で生まれ育ち、その土地の風土に根ざしつつ、音楽やカウンターカルチャーを通じて世界に目を向けていた奈良の半生を、作品だけでなく時代背景を示す場の再現を含めて紹介する展覧会である。特定の作家にとってのある時代や場所の意味を問うという個別的なことを超えて、大都市中心の美術史を追うだけでは見落としがちな多様性の有り様を知る上でも印象的な展覧会であった。

同様の観点から番外編として海外の展覧会を含めるならば、昨年末から春までインドのコーチで開催されていた波乱含みのコチ=ムジリス・ビエンナーレと、秋に開催されたブラジルのサンパウロ・ビエンナーレを加えたい。コチ=ムジリスの事務局には数々の不手際があったようだが、ディレクターのシュビギ・ラオが南アジアから発信した展覧会はそれを補って余りある深い洞察に裏付けられた内容で、サンパウロもまた、非欧米圏のアートをいかに体系化していくのかという意欲的な内容であり、それぞれにある土地の当事者としての責任を強く感じさせるものであった。

「奈良美智: The Beginning Place ここから」の会場風景。後ろの作品は奈良美智《Hazy Humid Day》

慶野結香(キュレーター、青森公立大学 国際芸術センター青森 [ACAC] 学芸員)

(A)あたらしい場所(広島・アートギャラリーミヤウチ
(B)コレクション企画「枠と波」豊田市美術館
(C)動物園にて―東京都コレクションを中心に東京都美術館

新型コロナウイルス感染症が影を潜め、海外渡航を含む移動の制限や、飲食およびイベント等に対する制約が緩んだ2023年。海外からアーティストを招くこともコロナ以前に戻ったように思えたが、依然として続くロシアのウクライナ侵攻や、イスラエル・ガザ戦争など、世界は分断され続けている。

そんななかにあって、日本において2023年に行われた展覧会のなかで希望を感じられたのは、「広島」を拠点に活動する若手・中堅アーティストと、「広島」によそからレジデンスアーティストとして訪れた者たちの視点が交錯しながら、「この場所」を起点とした風景を様々な時間軸で立ち上げようとした(A)の展覧会。キュレーションは黒田大スケ。そもそも筆者は、広島市現代美術館のリニューアルオープン記念特別展「Before/After」を目的にかの地を訪れたのだが、(A)ではオルタナティブスペースである広島芸術センターとのタイアップ企画も組まれるなど、地域の若手アーティストの活躍と、同地の芸術文化の層が厚みを増している様子が心に刻まれた。

また美術館の企画で印象深かったのは、豊田市美術館で行われた夏の企画展「吹けば風」と同時開催されていたコレクション企画(B)と、「上野アーティストプロジェクト2023『いのちをうつす―菌類、植物、動物、人間』」に併せて開催された(C)。いずれも並行して行われた展覧会と響き合いながら、とくに鈴木俊晴キュレーションの前者(B)は1960~70年代に都市化やメディアの普及によってもたらされた清新な風景の切り取られ方と、時に宙吊りにもなる表現者、そして鑑賞者の身体性がせめぎ合っていた。現在を生きる若手アーティストたちの表現とどうしても比べてしまうが、(B)のアプローチのほうが実験的かつ斬新で、より切実に迫ってくる瞬間があったのはなぜだろうか。後者(C)は、大内曜が武蔵野市吉祥寺美術館学芸員時代から取り組む、象の「はな子」とその記録映像を出発点とした、様々なメディアのアーカイブを活用した展示。近代装置としてのミュージアム=動物園と、生きものをまなざす人々や社会のあり方を問うことで、いま・ここで何かをまなざしている自分の現在地を確実に揺り動かされた。

失礼を承知でいうならB面の妙であるこれらの3展だが、いずれも通底するのは眼前の光景を、多様な時間軸や社会状況にいる人々の視点を問うことで、アクチュアルなものとしてとらえ直そうとする姿勢であろう。世界の分断には、この種の想像力が最も求められていると信じている。

豊田市美術館コレクション企画「枠と波」の会場風景

在華坊(アートウォッチャー)

(A)クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ東京都現代美術館
(B)やまと絵東京国立博物館
(C)風景論以降東京都写真美術館

展覧会に行くたびにX(旧Twitter)で感想を呟いている。RPやいいねが多く集まるのは、上げる画像のインパクトが強い場合が多い。会場の作り込みレベルが非常に高く、ワクワクが止まらなかった(A)のポストはインプレッションが非常に多かった。人気が人気を呼び終盤には当日券を求めて早朝から行列する事態に。

昨年界隈をザワつかせたユージーン・スタジオ展しかり、自撮りと映えの舞台としての展覧会への注目は今後も続きそうだし、今年は蔡國強デイヴィッド・ホックニーテート美術館展キュビスム展など、海外からの大型展でも写真撮影可能な展覧会が多い印象だった。否定的な方もいると思うが、「大正の夢 秘密の銘仙ものがたり展」(東京・弥生美術館)のように小規模だが画像の共有でより注目された良質な展覧会もあり、企画者の方はSNSをうまく活かしてほしい。

いっぽう、会場内写真撮影禁止の(B)のポスト(A)の4倍近いインプレッションがあった。暴力的とも言える数と質に圧倒された興奮が伝わったのか。鑑賞者の熱量が高ければ、画像がなくても注目度は高まる。

(C)は時代の熱気にあてられるような展覧会で、上映されていた「略称・連続射殺魔」に映し出される我が街の50年前の風景に釘付けになった。SNSでの注目度云々言っているけれど、展覧会での出会いや情動は、結局は極私的だ。

「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展の会場風景

沢山遼(美術批評家)

(A)マティス展東京都美術館
(B)パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ国立西洋美術館
(C)ジョセフ・アルバースの授業 色と素材の実験室(千葉・DIC川村記念美術館

順位をつけようがない気もするが、いずれも近代絵画を再考する貴重な機会となる展覧会であり、あえてこの3つの展覧会を外す理由を見つけることができなかった。マティス展とキュビスム展は、どちらもポンピドゥーセンターの収蔵作品を中心に構成されたもの。こうした作品群が、過去においてのみならず、いま現在も組み尽くすことのできない多くの問題を内在させたものであることを確認した。

DIC川村記念美術館では、本邦初となるジョセフ・アルバースの回顧展が開催された。この展覧会はアルバースの絵画のみならず、その活動を彼の教育とともに紹介する。彼が教師として活動したブラックマウンテン・カレッジの世界的な再評価と並行して、従来のアルバース像も大きく変化している。本展は、その世界的な流れと並行するものであった。

以上が、客観的な視点で、いわば「よそゆき」に選んだ場合の三展となる。ほかに牛島智子「葉室の光彩 工婦雨から実験へ  陽光のクマクジラ」(福岡・EUREKAほか3会場で開催)、「美術の中のかたち―手で見る造形 遠藤薫『眼と球』」兵庫県立美術館)、「村田コレクション受贈記念 西洋工芸の美 - 特別展」日本民藝館)も忘れがたく、個人的にはとりわけ重要な展覧会だった。本当の意味では、むしろこちらが「私の」3展かもしれない。

「パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展」の会場風景

清水知子(東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科准教授)

(A)さいたま国際芸術祭2023旧市民会館おおみやなど)
(B)岸裕真「The Frankenstein Papers」(東京・DIESEL ART GALLERY
(C)自然という書物 15〜19世紀のナチュラルヒストリー&アート町田市立国際版画美術館

従来の人間中心的な生き方では解決できない環境問題を前に、近年、様々な角度から人間と自然の関係が問い直され、新しい人間のあり方とその生態系=エコロジーが探求されている。「自然という書物 15〜19世紀のナチュラルヒストリー&アート」展は、15世紀から19世紀にいたる歴史のなかで、人間がどのように自然を読み解き、表現してきたのかを探求する圧巻の展示だった。西洋の自然科学とアートの関係が、自然史、博物学、科学、芸術が交わる場として紐解かれ、その変遷と革新が豊かな想像力とともに浮かび上がってきた。

いっぽう、岸裕真の「The Frankenstein Papers」展では、自然言語処理モデルであるMary GPTがキュレーションをし、展覧会のコンセプトも執筆している。メアリー・シェリーのゴシック小説『フランケンシュタイン』を学習したAIによる自画像、レントゲン写真、そしてどこか謎めいた奇妙なテクスト。AIによる作品とテクストを読み解きたいという誘惑に駆られるいっぽうで、美術作品の認識の仕方そのものについて考えさせる示唆に富んだ展示だった。

また「さいたま国際芸術祭2023」では、「スケーパー」なるものの存在を知るやいなや、自分の目の前の風景が一変した。何が「作品」で何がそうでないのか、何が「本物」で何がそうでないのか。こうした問いの立て方そのものが何を見えなくしているのかを考えずにはいられないユニークな芸術祭だった。さらに本展の市民プロジェクト「Women’s Lives 女たちは生きている——病、老い、死、そして再生」は、8人の女性が幅広い年齢層と多彩な手法によって「女性の生活」を表現するもので、人生を歩むこと、生活することの意味の重さと豊かさが響きあう、真摯な企画として心に残った。

岸裕真「The Frankenstein Papers」の展示風景より、岸裕真《The Lost Language of Mimir》

白坂由里(アートライター)

(A)さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展東京都現代美術館
(B)趙根在写真展 地底の闇、地上の光 ー 炭鉱、朝鮮人、ハンセン病(埼玉・原爆の図 丸木美術館
(C)石川真生ー 私に何ができるかー東京オペラシティ アートギャラリー

東日本大震災から12年が過ぎ、「ショック・ドクトリン」という言葉が一時期話題に上った。ショック・ドクトリンとは、自然災害や政変などの大惨事に乗じて為政者や巨大資本が市場原理主義的政策を断行することをいう。2007年にカナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインが著書を刊行し、「惨事便乗型資本主義」とも訳されている。3.11後の東北については古川美穂『東北ショック・ドクトリン』に詳しいが、(A)の受賞者である志賀理江子の映像インスタレーション《風の吹くとき》にこの「惨事便乗型」という言葉を見つけた。復興の名のもとに行われる搾取に都市生活者は敏感であらねばならないと思う。それと同時に志賀は、被災重機を撤去させずに山奥の私有地に集積する一人の男にオルタナティブな力を見ていた。

このように理不尽な権力に抗する市井の人々の力は、(B)の趙根在や(C)の石川真生の個展にも見られた。趙の写真が写す、ハンセン病で隔離された人々の書く力。石川の演出写真《大琉球写真絵巻》で苦難の歴史を演じる沖縄の人々の表現力は理屈を超えている。なお、《大琉球写真絵巻》には戦後の米軍基地建設で田畑を奪われる場面があるが、他の地域での減反政策や空港・原発建設も、それまで自立していた人々の生活が土地から切り離されることから始まっている。経済産業省の行う復興とは何なのか、アートプロジェクトに参加する場合にはよく調べて考えることが必要ではないかと個人的には思う。

「さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023受賞記念展」の展示風景より、志賀理江子《あの夜のつながるところ》(部分) 撮影:坂本理

筆者による趙根在写真展のレポートはこちら

筆者による石川真生展のインタビュー&レポートはこちら

塚本麻莉(高知県立美術館主任学芸員)

(A)リニューアルオープン記念特別展 Before/After広島市現代美術館
(B)ナラッキー(東京・王城ビル
(C)中園孔二 ソウルメイト丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

今年は山口や新潟で展覧会を企画したこともあって、これまでに接点のない土地の歴史や風土、人々の記憶と向き合った。だからか、場所の固有性を活かした展覧会が特に印象に残った。

たとえば(A)では、作品と同じ扱いで改修前の旧サイン類や建設時の施工図を展示していたことが忘れられない。過去の美術館の記憶を慈しみつつ、さらに活動を前進させようとする学芸員たちの気概を感じた。物故作家やベテラン作家による収蔵品と若手作家の新作を織り交ぜた展示構成も、「前」の世代に続く「後」の世代の台頭を予感させた。

(B)はビルが位置する新宿歌舞伎町の歴史と、いま街で生きる人々の躍動が同時に体感できた良企画。Chim↑Pom from Smappa!Groupによる「奈落」から上空を照らすサーチライトの光を追いながら、かつて1960〜70年代にこの街を舞台に活動した前衛美術家や演劇人たちの精神を継承したのがChim↑Pomなのだと思いがけず腑に落ちた。

(C)は早逝した画家、中園孔二が最後に拠点とした香川で行われた回顧展。中園が短い活動期間に残した膨大な量の絵画は、決して全てが傑作というわけではない。しかし、谷口吉生建築による美しくも癖のある空間の中で、傑出した作品と習作に近いものを巧みに配置し、在りし日の画家の勢いを見事に可視化した充足感のある内容だった。

広島市現代美術館「リニューアル記念特別展 Before/After」の展示風景より、田中功起《everything is everything》

原ちけい(ライター)

(A)顕神の夢 霊性の表現者 超越的なもののおとずれ足利市立美術館
(B)Ground Zero京都芸術センター
(C)青木淳退任記念展 雲と息つぎ ―テンポラリーなリノベーションとしての展覧会 番外編―東京藝術大学大学美術館・陳列館

コロナパンデミックによる物理的隔離から、境界線の越境によってもたらされる戦争の惨禍、AIエージェントや人工知能という共に異なる認知との戯れを通して、二項対立という概念そのものの限界と、あらゆる存在の分かり得なさに改めて立ち返らされる1年であった。
日本国内のアートシーンでは2020東京オリンピックの延期による余波から、今年度に開催がズレ込んだブロックバスター展や新施設、アートフェアの台頭が記憶に新しい。

そのような環境下でも、沈着に積み重ねられた思考と実践による企画の数々に勇気づけられた。(A)は人間が「何らか」の超越性に触れた際に表出する捉えがたい感覚に対して霊性という尺度から分析を試みる極めて野心的な視座を有した展示であった。その中でも萬鉄五郎の1910年代の作品に対して敷かれた超越性の解釈への動線が本展のトリガーであったと感じた。(B)は政治や軍事の計画設計の破綻がもたらす進まない未来と止まってしまった現実、民と公などの二値が極端に引き剥がされたジオ・トラウマに対して思考し、記憶の分有や関係性の治癒を通して、現代のグラウンド・ゼロを模索する荘厳な展示/リサーチプロジェクトであった。(C)は岡田信一郎によって設計された東京藝術大学陳列館の建築と環境に対して、研究室の学生と共に一時的な組み換え(手入れ)を行うことで展示という枠組みそのものを建築的に捉え直し、プロセスと態度の構造を再生させる展示であった。

「顕神の夢 霊性の表現者」展の会場風景 提供:足利市立美術館

松江李穂(キュレーター、埼玉県立近代美術館学芸員)

(A)合田佐和子展 帰る途もつもりもない三鷹市美術ギャラリー
(B)奈良・町家の芸術祭 はならぁと2023展覧会 SEASON 2宇陀松山会館
(C)こう、こう、こうThe 5th Floor花園アレイ

今年良かった展覧会はどれも小規模ながら、ものを作るという人間の営みの大きなスケール感に触れさせてくれるものだった。その中でもとくに印象に残った3つの展覧会を挙げる。

(A)は三鷹市美術ギャラリーと高知県立美術館の共同企画による開催。本展は近年徐々に増えている女性作家の再評価を目指した展覧会に連なる意欲的な内容であり、とりわけ晩年の絵画作品までしっかりとセクションが割かれているのが良かった。軽視されがちな晩年の神秘主義的な作風を合田のひとつづきの画業の中に位置付ける仕事は、作家の表現へのリスペクトと丁寧になされた研究や調査から生まれるものであり、見習うべき姿勢を感じた。

(B)は長谷川新によるキュレーション。「変わりながら続いていくもの」をテーマに、展覧会後も消えずにその生を続けてゆく作品のみが展示された。会期前に山本悠によって企画された、宇陀市立大宇陀小学校の児童とともに展覧会ポスターを制作し全国へ配るプロジェクトも非常に面白く思った。この世に各1点しかないポスター(それ自体がとても素敵な作品である)も他の作品と同じように、もしも配布された先で残され続けていたら、それもきっと大きな意味があるだろうと想像する。

(C)は鈴木葉二によるキュレーション。五月女政平、政巳、哲平という三代の画家の百年にわたる軌跡を追う内容でありながら、展示構成は3つの異なる部屋の同じ位置に、三者が描いた同じサイズの絵画を置くというシンプルなものだった。しかし、関係者と何度もやり取りを重ねて行われた取材や調査に基づいて書かれたテキストは一枚の絵に費やされた時間を思い馳せるのに十分で、三世代がつなぐ百年という歴史を味わうのにも不足なく感じた。じっくりと絵に向き合いたくなる仕掛けが素晴らしい展覧会だった。

「合田佐和子展 帰る途もつもりもない」の会場風景

南島興(横浜美術館学芸員)

(A)“みかた”の多い美術館展滋賀県立美術館
(B)プロトタイプライトシード・ギャラリー
(C)坂口恭平日記熊本市現代美術館

「“みかた”の多い美術館展」はキュレーター(山田創)と障害者施設などの複数のコミュニティとのネゴシエーションとその編集の成果である。一種の集団制作ともいえるが、各コミュニティとの関係性は山田の前職(ボーダレス・アートミュージアムNO-MA)での経験に基づくものであり、一朝一夕に出来上がったものではない。本展はしたがって「多様性」という終着点からではなく、企画の始発点としてキュレーター自身が持っていた個の表現でもあることに感銘を受けた。また車椅子利用者の目線に合わせて、具体の絵画を展示した部屋では、表現とは何かという本質的な問いを突きつけられたと思う。

個と集団制作について全く別の視点から興味深いのは、KOURYOUとEBUNEである。「プロトタイプ展」はKOURYOUの個展ではあるが、本展では作家自身が初期から関心を寄せていたパーソナルコンピューターの原型であるメメックスの構造がKOURYOUとEBUNE、つまり個と集団の表現をネットワーク化する仕掛けとして採用されていた。しかも、その中央ではメメックスのユーザーのようにKOURYOUがパフォーマンスを行うことで、自らの身体でネットワーク化を媒介しているかのようだった。SNSのプラットフォームの時代のなかにありながら、いわば原インターネットへの遡行を試みるKOURYOUとEBUNEの特異性が巧みに組み合わされた展覧会と言える。

最後に今年は、私が坂口恭平との対話をまとめた『坂口恭平の心学校』を刊行したこともあり、坂口の「美術界」とは一線を画する、芸術・経済活動について改めて考えることが多かった。「坂口恭平日記展」はこの数年のパステル画が一堂に会した展覧会だが、坂口にとっての建築のイメージ、要約すれば、窓しかない構築物だが、人々が一時は安らぐことができるシェルターが初期から一貫したものであることがはっきりと読み取れた。それは、「いのっちの電話」を介して、坂口自身の身体イメージにも重ねられているが、実際に集まった人々で徒党を組むことはない。坂口が建築だとしたら、その機能は集団化の夢を記述することなのである。集団や共同性へと通じる(私的財産であったはずの)夢の分析と創造は今日のアテンションエコノミー下での批評の仕事でもあるだろう。

滋賀県立美術館「“みかた”の多い美術館展」の会場風景 撮影:成田舞(Neki inc.)

宮本初音(アート・コーディネーター、ART BASE 88 代表)

(A)第14回くすかき―太宰府天満宮―(福岡・太宰府天満宮
(B)世界水泳選手権2023福岡大会記念展 水のアジア福岡アジア美術館
(C)小田原のどか 近代を彫刻/超克する―津奈木・水俣編[序](小田原のどかつなぎプロジェクト2023成果展)(熊本・つなぎ美術館

(A)は2010年にアーティスト五十嵐靖晃が始めたプロジェクト。春の太宰府天満宮の境内で、古いくすの葉を集め場を整える。その葉で樟脳をつくり、奉納する。コロナ期も工夫して続け、今回で14回目。参加し続けた子どもは大学生になった。アートと宗教の境を越える感覚。

(B)は世界水泳に合わせた企画展。自然の中で変わる水の形と、生活や歴史との関わりを辿った。福岡で活動してきた比佐水音、山内光枝が参加していることが感慨深い。山内は韓国釜山に住んでいた先祖を巡る動画作品を制作し、現代のアジアと福岡(日本)の関係を問うた。

(C)は住民参画型プロジェクト1年目の成果展。町内にある公共彫刻をリサーチし、各所に選挙ポスターを設置、美術館を投票場とする「彫刻選挙」に仕立てた。彫刻について自発的に考えるきっかけとなるとともに、選挙という仕組みで政治への関心も喚起させる、非常に際立った構成だった。

福岡市では2022年に“彩りにあふれたアートのまちを目指す”と銘打った「Fukuoka Art Next (FaN)」事業が始まり、創作活動拠点の整備、アートフェアやレジデンス事業の拡大、アワード新設、FaN Week開催など多くの事業が動いている。発表の場は増えたが、オペレーションや広報の手法など検討すべきことが山積み。そのほか九州内では福岡県北九州市の「大里アートプロジェクト」、熊本県荒尾市の「万田坑芸術祭」が興味深い。韓国の光州ビエンナーレと同時期に光州市内で開催されていた「楊林路地ビエンナーレ」も楽しかった。

「第14回くすかき―太宰府天満宮―」の会場風景 撮影:宮本初音

藪前知子(キュレーター、東京都現代美術館学芸員)

(A)リニューアルオープン記念特別展 Before/After広島市現代美術館
(B)日本国憲法展無人島プロダクション青山|目黒ジュンク堂書店池袋本店
(C)日曜の制作学鞆の津ミュージアム

世界が再び動き出したことで、美術館の行列やレイヴ的な動きなど、人々が集まる光景が戻ってきたいっぽうで、戦争や対立の危機も深刻となった1年。私たちの生存の条件について、足元を見つめ直すようなキュレーションが印象に残った3展を挙げることにしたい。

「Before/After」というテーマのもと、改修工事の記録、さらには収蔵作品の再展示から始まる、広島市現代美術館のリニューアル・オープン展。修繕という行為が、原爆、さらには福島第一原発の事故という不可逆的な出来事への抵抗に結びつけられる。リニアな時間の流れを組み替える、美術館のマニフェストとも言える展覧会。

視覚表現と日本国憲法の条文を並べた同名の本を着想源として、新たに作品を選定し直して都内に展開した「日本国憲法展」。私たちの生存の基盤ともなる憲法と結びつけられることで、作家たちが社会や生活から出発しながら、どのようにその作品でしか語れない、固有の場所を確保してきたのかを考えさせられる。普遍性と個別性の往還にこそ芸術の経験があることを鮮やかに伝える展示。

「日曜の制作学」は、福祉の側からアートという領域にいかに関わるかを考えてきたミュージアムが、「私たちの生存を密かに支える日曜の制作」に着目した展覧会。表現者それぞれの人生の物語とともに、手を動かし何かを残そうとする、目的なき人間の欲求について、生活の延長のなかで考えさせられる好企画だった。

無人島プロダクション「日本国憲法」展の会場風景 撮影:西山功一 Courtesy of The Constitution of Japan Exhibition Committee and MUJIN-TO Production

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